建築 見て歩き

2009年6月15日 (月)

ビニールハウスプール

宮崎県の北部に延岡というまちがある。旭化成の企業城下町として発展してきたまちであり、宮崎県は県北の延岡、中央部の宮崎市、県西南の都城と、理想的な3極構造にあったのだが、さいきんでは宮崎市ばかりが隆盛のようで、一極化が進行している感がある。

さて、その延岡に用事があり行ってきた。東海とかいて「とうみ」と呼ぶ中学校へ行ったのだが、都城から車で3時間かけて到着したその場所に、テレビで見覚えのある建物があった。

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ビニールハウスかとおもいきや、「松田選手おめでとう」などと書かれたたくさんの垂れ幕があるので、すっかり有名になった、あの松田選手を育てたビニールハウスプールだとすぐわかった。

ペキンオリンピックから、はやいものでもうすぐ1年にならんとしているが、あの興奮と熱狂の日々がなつかしい。オリンピックのメダル効果はすごいものがあり、4位入賞だと見向きもされないが、メダルさえ取れば日本中が祝福の嵐になる。おかげで、松田選手も久世コーチもテレビにひっぱりだこだったし、このプールも松田選手を育てたユニークなものとして再三取り上げられた。

たしかに、ぱっと見たところでは、野菜か果物かを栽培するビニールハウスである。垂れ幕がなかったら気付かなかったかもしれない。中に入ってみると、さすがに暖かい。初夏の陽光が降りそそいで、汗ばむほどの気温である。たぶん、水温もそこそこ上がるのだろう。

同行の人の話では、このプールは延岡市立東海中学校のプールだそうだ。だから体育の授業でも使用する。それを、授業以外の時間にスイミングクラブが借用しているのだそうだ。吹きさらしの野外プールではさすがに冬場の練習はできない。そこで、ビニールハウスとあいなったしだいだが、冬場はいいのだが、夏場はめちゃくちゃ暑いらしい。たしかに、見たところ、全面ビニールに覆われていて、上部に換気扇がカタカタ音を言わせながらまわってはいるものの、涼風を呼び込む開口部は少なそうだ。

松田選手の活躍で注目を集めたため、もっと立派な施設にしろとかいう声もあるようだが、あれから一年、まだこの状態で現役であった。わたしが訪れたのは土曜日の午前中であり、たくさんの子どもたちがコーチの指導を受けていた。

劣悪な環境だと人間は工夫をする。だからこのプールはできた。必要は発明の母である。こうして松田選手も育った。自分で考えることはスポーツにかぎらず重要なことだが、めぐまれた環境でも自分で考えることはいくらでもあるだろうから、めぐまれた環境の方がいいに決まっている。ただ、甘やかしてはよくない。

必要かつ最低限の充実した空間と機能と設備をもち、人間を甘やかさない精神性や要素をあわせもつ。これが理想の建築だということだろうか、なんて建築にこじつけてみたりする。

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2009年4月12日 (日)

鹿児島の卵/ゼロ・コスモロジー、鹿児島大学稲盛会館、輝北天球館

鹿児島にはコンクリートの卵が三つある。鬼才・高崎正治による輝北天球館とゼロ・コスモロジー、そして世界のアンドーの稲盛会館だ。

場所的にはアンドーの卵は鹿児島大学構内にあり、輝北天球館はその名のとおり輝北町の高台の見晴らしのいい場所だ。このふたつはすでに工事中も含めて見学済みであり、高崎のもうひとつの卵だけが実際に見ていない建物だった。

先日、所用で鹿児島に行くことになり、ようやく三つ目の卵を見ることができた。その「ゼロ・コスモロジー」の場所は、なんと、アンドーの稲盛会館のすぐ近く、鹿児島大学内の付属小学校の目の前のコンビニの裏手にあった。

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年代順ににいくと、ゼロが1991年ともっとも古く、次いでアンドーが1994年、輝北が1995年である。上の写真がゼロであり、さすがに20年近い歳月はツルツルの卵を黒いピータンに変化させてくれている。もともと、ここは高崎氏の拠点事務所だったのだが、昨年、氏は事務所を東京に移したようであり、現在は無住の事務所となっている。右の写真に郵便受けが写っているが、名前はそのままなので、現在でも氏の鹿児島での活動拠点にはなっているのだろう。氏は鹿児島県人であり、その顔つきはバリバリの薩摩隼人である。卵の下の池には、錦鯉が数匹、悠々と泳いでいたので、メンテナンスは定期的にされているのだろう。

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こちらはゼロから目と鼻の先の鹿児島大学にある稲盛会館。京セラの創始者稲盛氏の寄贈による。アンドー氏も高崎氏とおなじく、卵には思い入れの強い建築家であり、実現はしていないが、大阪中之島の古い公会堂の改修案が卵を内包した案であり、その案がスモールバージョンとなってこの鹿児島で実現した。

大学西側の道路から、ガラス越しに卵が透けて見えている。写真のうつりが悪くて見にくいが、ここの卵は一部がカーテンウオールのファサードから突き出ていて、3枚目の写真はその部分のサッシとの取り合い部だ。

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これが三つ目の輝北天球館。まず、このグジャグジャの造形に、「よく作ったな」とだれもが感嘆の声をもらす建物である。この建物は球状のカタチが複数内包されていて、1枚目の写真ではわかりづらいが、天文台のような形状の奥にロータス(蓮の葉状のもの)を冠した卵が鎮座している。卵の下の展望台からは、錦江湾越しに桜島の雄姿が見え、高崎のいう宇宙との交感施設らしいロケーションである。また、ここは一年中風の強いところであり、近くには多数の風力発電の巨大なプロペラが風と交感している。

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この2枚は卵の内部であり、ホールになっている。2枚目は上部を見上げたもの。コンクリートの円柱が貫通して、やはりコンクリートのロータスを捧げ持っている。

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2009年3月11日 (水)

定額給付金と武徳殿

財布を拾った。わたしはよく財布を拾う。そのかわりによくなくすので、バランスはとれているのかもしれない。これまで数回財布をなくしている(紛失というか置き忘れがほとんど)が、ほぼ90%は返ってきている。一度は旅先で高速道路のトイレに忘れていたのが、ある日突然宅急便で返ってきて、丁寧にお礼状を書いた。だからというわけでもなく、わたしは拾った財布は交番に届ける。あたりまえだと思うからだ(ほんとは気が弱いからだともうひとりの自分が言う)。

拾った財布に、たまには免許証や名刺が入っていたりして、そのまま電話してあげたこともある。知っている人ならそうすればいいが、知らない人の場合は交番に届ける方がいいのかもしれない。その場合、交番はちゃんと名刺の電話番号に電話して連絡するのだろうか。数年前、やはり財布を拾った。中には同じ名刺が多数あり、たぶん落した本人だとおもう。交番に行き、「財布を拾ったんですが、中に名刺があるので連絡してもらえますか、しないんだったら持って帰って自分でします」と言ったら、さいしょはいやがっていたけど、わたしが持って帰ろうとしたら「するから置いていきなさい」みたいなことになった。そのときは落とし主がお礼に来たので、おまわりさんが電話したのか本人が連絡したのかさだかではないが、持ち主に返ってよかった。

さて、届けてから、もう一週間になろうとしている。まだお礼の電話がないところをみると、落とし主はよっぽどの金持ちか警察に不信感を持っている人物か、あるいは、わたしが「お礼はいりません」と言ったことを忠実に守っている人なのだろか。交番でおまわりさんと一緒に中身を確認したら6万5千円入っていた。まさか、これだけの大金をなくしてそのままにしておく人はいないはずであり、すぐ連絡があるだろうと思ったのだが。

交番に届けたあと、自宅に帰ってテレビをつけたら、定額給付金を執行するために必要な関連法案が可決されたとニュースが言っている。わたしの家庭だと6万4千円になる。拾った金とほぼ等しい。一瞬、善行をしたわたしへのご褒美かとおもった。不足の千円は消費税だとおもえばいい。

でも、拾った財布を届けるのは当たり前のことであり、善行ではない。その証拠に、わたしは財布を届けて交番でおまわりさんにお礼を言われたことがない。「あなたはいいことをしました」なんて警官に言われた日には、へそまがりのわたしは毒づくだろから、それでいいのだが、財布を届けたわたしに、落とした場所、住所氏名、職業、本人確認のため免許証拝見など根掘り葉掘り時間がかかるので、とっとと帰りたいわたしは不愉快になる。お礼はいらないとハナから言ってある。「もう帰る。そんなにめんどくさいのならもう届けない。この財布は持って帰る」と言ったらやっとあきらめてくれたが、それらはすべてわたしの不徳である。担当の若いおまわりさん、困らせてごめんなさい。

そんな若いおまわりさんを鍛えているのが宮崎県警察学校だ。ここには武徳殿というすてきな武道場がある。仄聞では戦後のものらしい。うちに営業に来る電気屋さん(ここで剣道を教わっていた)によれば、子どものころは床が抜けているところもあったそうだが、先日行ったときにはきれいな床だったので、おそらく張り替えたのだろう。唐破風の建物は銭湯くらいしかなくなり(宮崎県には銭湯も珍しい)、これぞ唐破風という県内有数の貴重品である。

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現在ではおもに剣道場として使用されているようだ。貴賓席(玉座と言った方がいいかもしれない)を持ち、昭和前期の武道場の様式がよく見て取れる貴重な建物だとおもう。開口部はアルミサッシに変更されているが、建物本体はしっかりしていて、まだ数百年は物理的にはもつだろう。やっぱり、多少の無理はしてもいいものを作っておいた方がいい。

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2009年2月10日 (火)

建築の原型

宮崎県の中部に田野町というまちがある。毎年、冬になるとだいこんを寒風にさらし、おいしい漬物にするためのやぐらが組まれる。大きいものは長さが50メ-トルほどもあり、この巨大なやぐらにびっしりと吊るされた大根の姿は壮観であり、この地域の冬の風物詩である。

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写真でみるとおり、丸太(さいきんではスチ-ルフレ-ムのものもある)でほぼ正三角形になるように組んであり、さらに竹のフレ-ムで二重に組んであるが、これは大根を霜から守るためのブル-シ-トを掛けるためのもののようだ。ブル-シ-トはロ-プで上げ下げできるようになっていて、昼間は足元にたたまれている。竹組は上方で交差してなお天に伸び、神聖な神社の千木(ちぎ)のようでもある。

高さは三角形の頂点で5~6メ-トルほどあり、やぐらの内部はかなり広い。居住用スペ-スにするとしても、じゅうぶんな広さがある。

この光景を見るたびに、建築の原型はこれだろうなとおもう。もちろん、こんなに大きなものではないが、丸太あるいは竹を地面に立て、頂点で結ぶと三角形ができる。それをいくつか横に連続していけば容易に居住スペースができる。これを木の葉や草で覆えば竪穴式住居のできあがりであり、現代ならブルーシートで覆われる。

なぜこんなことを書いているかというと、不況のあおりで派遣切りなどが相次ぎ、大量のホームレスが生み出されかねない報道が年末から続いているからだ。まさか、このやぐらを都会に運んでホームレス用の住居にしたらというのではない。もっとマシなところに人は住むべきだし、それでなくとも日本の住宅はすでに大量の余剰を抱えている以前に、住宅に困窮している人たちには最低限かつ快適な住居が保証されてしかるべきであり、そのために行政が存在する。持家政策なんか幻想だろうし正当性も見いだせない。ちっぽけな賃貸マンションに10万か20万の家賃を払うなんで正気の沙汰とは思えないが、家賃5万円程度でそこそこの借家に住め、その気になれば同程度のローンで新築の一戸建てが手に入る南九州地域の方が、この点では健康的である。ただし、所得が日本でも最低レベルだからの話だ。

ただ、こんなにシンプルで力強いフレームとスペースを見ていると、わたしたちの現在の住まいが、いかにも過剰でありデコレーションされすぎているような気がするし、もっとローコストで広いスペースが提供できるのではないかという疑問が湧いて出る。建築も住宅も、もっと自由であればいい。

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2009年1月24日 (土)

14年前の神戸 その2

前回の続編です。

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2009年1月17日 (土)

14年前の神戸 その1

年が明け、正月気分が抜けてきたころになると、1995年の惨事を思い起こすことになる。阪神・淡路の大地震だ。あれから14年たち、神戸はみごとに復興し、震災の傷跡はほとんど見当たらないまでになったようだが、心にのこった衝撃は生涯消えることはないだろう。

ことしも、以下の写真を自宅前にある掲示板に掲示することにした。(枚数が多いので2回に分けて掲示します)

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2008年12月14日 (日)

観覧車建築

先日、所用で鹿児島市へ行ってきた。飲むつもりだったので都城から電車に乗ると、終点は鹿児島中央駅である。昔は西鹿児島駅といっていたのだが、2年か3年ほど前、鹿児島新幹線の開業にあわせて駅名と駅舎がリニュ-アルした。

さて、その駅前に「AMU」という巨大な複合商業ビルがあり、その目玉が屋上にある観覧車である。

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すでにオ-プンして2年ほど経っている。はたして観覧車はどれくらいのお客さんがいるのだろうとおもって上がってみると、金曜日の午後4時、わたしが見ていた15分くらいのあいだに、お客さんはついにひとりもいなかった。乗り場では係員の若い女性がすることもなく寒そうであった。

わたしも観覧車を計画に組み入れようとしたことがあり、サノヤス・ヒシノ明昌というメ-カ-に事務所に来てもらったことがある。しかし、営業マン氏の説明で大きなものは1億円を超えると聞き、早々と導入をあきらめた。しかし、律儀なメ-カ-であり、その後も社のカレンダ-を送ってくれている。

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こちらは福岡のマリノアシティのもの。ここにはなぜか観覧車が大小2台ある。大の方はとても大きな観覧車であり、建物が低層なので、建築に観覧車が載っているのではなく、観覧車に建築が付属しているような印象だが、こちらは4年前の時点で、大の方は立地がショッピング街からちょっと遠いこともあり、チラホラの客足、小はショッピングゾ-ンの中心にあるせいか、まあまあといったところだった。料金も小のほうがリーズナブルである。

国内での観覧車建築の嚆矢といえば大阪・梅田のセブンビルかなんだかだろう。大都市の繁華街にそびえる真っ赤なホイ-ルは、ランドマ-クとしても客寄せとしても「効果は抜群だ」であり、数年前、開業して間もないときに長蛇の列に並んで乗ったものである。夜間だったこともあり、ナニワの夜景がとても素敵だった。

梅田の観覧車は今でも列をなしているのだろうか、年末年始は夜景を楽しむカップルで繁盛しているのかもしれない。マリノアのツインホイ-ルはどうだろう。もしかしたらひとつになっていないか。先述したように、観覧車はとても高額なものである。建築に組みこむと、建築本体の構造まで影響を受けてかなりの経費負担になるだろう。梅田のものは設置費用を2億円と仮定して、ひとり1000円として計算すると20万人分になる。1日500人で360日だと18万人の計算なので、こちらはじゅうぶんにモトを取ったことだろう。AMUはたしか600円だったが、採算はとれているのだろうか。

つい、ご時世にあわせてケチクサイ計算をしてしまった。

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2008年9月28日 (日)

如庵 有楽苑

愛知県は犬山に有楽苑という名勝地がある。名古屋鉄道が運営する名鉄犬山ホテルに隣接し、広大な敷地はよく整備されていて、国宝の茶室「如庵」と重要文化財である「旧正伝院書院」などの文化財や建造物がある。秋の建築として、今回は有楽苑と如庵を紹介したい。

東京に有楽町という繁華街があるが、この地名は織田信長の弟の織田有楽斎の屋敷があったことによるという。有楽斎は信長の死後、秀吉そして家康につかえた。傑出した武将だったのだろうが、それ以上に高名な茶人としても知られていて、最晩年に京都の建仁寺に隠居所と併設する茶室をつくった。それが正伝院と如庵である。

建仁寺は京都祇園の場外馬券売り場に隣接してあるが、明治の改革期、祇園の有志にこの正伝院及び如庵は払い下げられ、のちに三井家の所有になり東京に移築される。さらに昭和13年に大磯に移され、やがて名鉄の所有となり、昭和45年にこの犬山の地に移築され、有楽苑として整備公開され今日にいたっている。ここには、如庵のほかにも、弘庵、元庵という茶室もある。

現在、国宝の茶室は3つあり、利休作といわれる京都山崎の「待庵」、小堀遠州伝という京都大徳時の「蜜庵席」がそれであるが、蜜庵は非公開なので見学は困難である。待庵は申しこめば拝観可能であるが、ちょっと敷居が高い。その点、如庵は一般に公開されているので、犬山の有楽苑に行けば外観はいつでも見学できる。また、秋には特別公開として内部まで見学可であるのがありがたい。愛知県の企業はハデさはないが、堅実かつ実直であり、意義のある事業をおこなってくれている印象がある。

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左上の写真の右手に見えているのは名鉄犬山ホテル。隣接して有楽苑がある。右下の写真は正伝院にいたる含翠門。

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含翠門をくぐって有楽苑の中心である正伝院にいたる。隠居所にふさわしい小ぶりで実直な建ち姿だ。右下の写真に見えているのが如庵、正伝院の南東の縁先にひっついて建っている。

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露地に面して玄関状の土間があり、にじり口がしつらえてある。茶室としては珍しい構成だ。如庵といえば、床の間わきの三角形に切られた壁が高名なのだが、残念ながらここには写真がない。内部は2帖半プラス台目の室内に床が付く。台目というのは1帖の4分の3の大きさの畳の寸法である。室内の汚れたかのように見える白っぽい腰壁は、古い暦が貼られたもので、如庵の意匠の特徴のひとつでもある。

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2008年9月24日 (水)

京都 詩仙堂

お彼岸をすぎ、名目上も実質上も秋になってきました。そこで、秋にふさわしい建物を紹介しておきます。

まずは、京都は洛北の一乗寺にある「詩仙堂」です。江戸初期の武将であり文人でもあった石川丈山の建立とされています。丈山は煎茶の祖ともいわれていて、安い煎茶をガブ飲みするわたしにも、多少の縁を感じさせてくれます。

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左は詩仙堂にいたるアプロ-チ、右は詩仙堂内の庭です。きれいに掃き清められた庭に落ちる落ち葉と花びら、秋の風情と情緒を感じるにはもってこいです。

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詩仙堂の名前は、36歌仙の額絵を掲げた「詩仙の間」があることに由来するそうだが、たぶん、内部は写真撮影禁止であったのだろう、手元には写真がない。その詩仙の間を中心に雁行した平面を覆う複雑な形状の屋根がかかっていて、この建物の特徴にもなっています(上の写真左と中央)。とくに、左の写真の望楼のような2階部は「嘯月楼」といい、その丸窓と角窓は詩仙堂を代表するデザインとなっています。

右の写真は境内(詩仙堂はお寺である)の美しい庭園内にある茶室風の別棟の小建物。写真には映っていないが、ススキの優美な曲線をびっしりと描いた内部の意匠が記憶に残っています。

なお、丈山の出身地である三河の安城には、丈山苑という広大な日本庭園が97年につくられていて、そのなかにこの詩仙堂をモチ-フにした詩仙閣という建物も建てられています。

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2008年8月23日 (土)

風の丘 葬祭場

オリンピックにかまけているうちに、いつのまにか、お盆も過ぎさりましたが、大分県中津市にある槇文彦の「風の丘」葬祭場を紹介しておきます。

ネットで検索すると、「風の丘」なるスポットは全国にあるようですが、これは、中津市郊外の緑ゆたかな静かな丘に位置し、まさしく風の吹き抜けていく音だけが聞こえてきそうな環境にある葬祭場です。

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ランドスケ-プと建築が一体となった佳作であり、村野藤吾賞はじめいくつかの賞を受賞しています。人生の最期を、このような静謐かつ上質な空間で締めくくることができれば本望というものでしょう。

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2008年8月10日 (日)

安井息軒旧宅

都城から東へ40キロメ-トルほど行ったところに清武町がある。このまちは江戸時代は飫肥・伊東藩の領土の北限であり、これより南は飫肥藩であると書かれた石碑が小高い丘の上に建つ「きよたけ歴史館」の前庭に立っていた。

安井息軒はこの清武で生まれた。江戸時代後期の著名な学者らしいが、あまり知られてはいないとおもう。森鴎外の「安井夫人」という作品の主人公のモデルは、この人の佐代夫人であり、容姿端麗で夫おもいのうらやましい女性だったとのことで、もしかしたらこちらの方が有名なのかもしれない。息軒は飫肥の藩校で学問を教えたあと、江戸へ出て勉学に励み、私塾を開く。ちょうと、NHKでやっている「篤姫」のころと時代的には重なりあっていて、水戸の徳川斉昭や江戸の勝海舟とも交流があったようなので、もしかしたらドラマ「篤姫」に登場するのかと館の職員に聞いてみたら、「知りません。たぶん、出ないでしょう」とのこと。

息軒の生まれた家が「きよたけ歴史館」のすぐ隣にあり、正確に言うと、息軒の生家の近くに、数年前、この歴史館が建てられた。この旧宅は以前にも一度訪れたことがあるが、近年、復元改修してあらためて公開されている。20余坪ほどの小さな家だが、シンプルで好感のもてるいい住宅だった。1799年に息軒は生まれているので、200年以上も前の建築ということになる。

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道路から階段を上がると正面に大きな玄関が見える。内部は8帖に床の付いた上座と、10帖の下座からなる座敷がメインである。

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左は玄関西に位置する台所(かまや)、中の写真は上座の西に位置する納戸(昔の寝室だろう)の木組。左の写真は座敷上部の萱葺き屋根の小屋組だが、となりの納戸からの西日の照り返しで照明があるように明るく照らされている。

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左から裏側(南側)の外観、道路からのようす。

10帖と8帖の座敷、6帖の納戸、3帖の書斎、4帖の勝手(食堂だろう)、かまど、これがこの旧宅の内部空間のすべてである。座敷には東側に面して縁が取り付いている。スケ-ルを持参していなかったのでモジュ-ルは不明だが、畳は京間より小さいように感じた。全体の配置が東向きなのは理解に苦しむところだが、息軒の父親も学者であったので、早朝の勉学のための配置なのかもしれない。本来は90度振れた南向きだったのかとも考えたが、そうすると玄関が台所(かまや)前を通ってからのアプロ-チになり、堂々とした玄関の魅力が失われてしまうようだ。

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2008年7月28日 (月)

クールな建築 

こう暑くてはやりきれません。「暑い、暑い」を連発する人に、「暑い暑い言うな」と言ったら、「暑い・暑い・暑い・・・」と30回くらい言い返され、さらに熱くなったことがあります。暑いときには「暑い」といえばいいのでした。

さて、暑いとなげいているばかりでは芸がないので、ク-ルな建築を紹介。せめて夜だけでも涼しそうなのでうらやましい、東北は仙台にある「仙台メディアテ-ク」です。日本を代表する建築家・伊東豊雄の設計による図書館&美術館を核とする複合文化施設であり、東北の雄を自認する仙台市がその威信をかけて建設したビッグなプロジェクトです。

この建物はコンペ(設計競技)により設計者が決められました。建築誌に発表されたそのコンペ案を見て、「これはすごい」と日本中の建築家が驚愕したことだとおもいます。それくらいの衝撃を建築界に与えた建築ですが、そのコンペが実施されたのが1995年、もう13年も前のことになりました。2002年が日韓ワ-ルドカップ、その前の1998年がフランス、さらにその前の1993年にド-ハの悲劇がありました。こうやって、具体的な事例をあげた方が理解がすすむわけですが、もっと言うと、1995年は阪神・淡路大震災及び地下鉄サリン事件の年でもあります。

それから5年後の2000年に仙台メディアテ-クは竣工し、あらためて日本の現代建築を世に問うことになったのですが、この間、世界の建築はグジャグジャ路線に突入していたこともあり、端正でク-ルな建築の極地ともいえる「仙台メディアテ-ク」の印象度は、やや弱くなった感もなきにしもあらずでした。まあ、それはそれとして、このク-ルな建築を思い起こして、建築の可能性と酷暑からひととき逃れるよすがを感じることができたら幸いです。この建築の誕生以来、それまで建築的にはあまり見向きもされていなかった仙台に、海外を含む多数の建築関係者が見学に訪れるようになったということで、わたしもそのひとりですが、それだけの力のある建築です。

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2008年5月 3日 (土)

若林広幸・京都

またしても京都シリ-ズです。

先回、わたしが京都にいた20年ほど前の京都の建築シ-ンを取り上げました。そのころ、高松伸と張り合っていたいたというか、トンガッタ建築をつくって目をひいたのが若林広幸です。氏は昨年、京都の三条通りにある旧毎日新聞京都支店という3階建ての古いビルを自分で購入し、解体の危機から救いました。小さなビルですが、京都の繁華街にありますので、かなりの出費だったはずで、そんな男気を持っています。また、氏の事務所は京都市役所のちかくにある古い町屋を改造した建物であり、玄関庇の唐破風が特徴となってます。京都のまちと町屋建築に愛着をもつ建築家であることがわかります。

氏のデビュ-作はライフイン京都という老人ホ-ムでした。1986年の竣工です。氏はもともと、たち吉という京都の老舗陶磁器メ-カ-で企画デザインを担当していて、その後、インテリアさらに建築へと転進してきた人物です。1987年の10月、わたしは京都へ行き氏の事務所をたずねました。できれば、ここで働きたいという希望を抱いていました。それほど、ライフイン京都のインパクトが強かったのでした。

そのころは氏の売りだし中のころで、かなり忙しいようでした。しかし、実務に役立つ経験者ならともかく、わたしのような修行の身では「来てもいいけど給料は払えない、こづかい程度しかあげられない」と言われ、泣く泣く就職は断念しました。建築設計界は徒弟制度的なところがあり、有名建築家のもとには、「タダでもいいから修行させてくれ」という若者がやってくるのです。氏の事務所を辞するさい、「ライフイン京都を見て行きなさい」と声をかけてくれ、その老人ホ-ムの担当者に電話してくれました。

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市街を望む洛西の丘にあり、東山から市街を望む清水寺に相対するつもりでつくったというようなことを言っていたように記憶します。

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内部中央ロビ-の滝のある吹き抜けです。

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中間の屋上テラスから見たようすです。

いかにもバブリ-な造形に見えるかもしれませんが、氏はこのかたちは純粋にレンタブル比を追及した結果であるといいます。もともとの計画案をみて、オレならもっとレンタブル比を高くできるということから設計がスタ-トしたそうです。レンタブル比というのは、建物の床面積に占める収益面積の比率です。これが高いほど収益性が高いといえます。たとえば、テナントビルのうち、共用通路などを差し引いて、純粋に家賃のとれるテナント部だけの面積の割合のことです。つまり、経済性を追求したかたちであるということです。たしかに、中央ロビ-まわりはさすがに金がかかっていますが、他はそんなに派手ではありません。しかし、1980年代後半の活気ある時代の造形であることはまちがいありません。これを見て、建築に夢を見た気がしたものです。

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2008年4月25日 (金)

バブルと北山通りと高松伸

わたしは京都に数年間滞在し、設計の修行をしました。このブログで先回、2回にわたって数奇屋のとっておきの名建築を紹介したところ、好評につき、気をよくして京都シリ-ズ第三弾をなつかしの記憶からたどってみます。

わたしが京都にいたのは20代のころですので、今から20年ほど前になります。そのころ、京都は現代建築のひとつのエポックでした。とくに、京都市外の北に位置する北山通りは、名だたる建築家がその作品を競う場所として名高いところで、わたしたち建築家の卵は、胸を高鳴らせていたものです。

その当時の建築家のうち、もっとも北山通りを活性化させたであろうのは高松伸さんです。まず、WEEKというビルで北山通りの存在感をアピ-ルします。

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これがWEEKです。当時は、この赤がショッキングでした。その後、同じ北山通りにSYNTAXというビルをつくり、高松伸の名を決定付けます。手元に写真がありませんので,紹介できないのが残念ですが、機動戦士ガンダムのようなすごい造形といえばわかってもらえるかもしれません。

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このころは、北山通りに界隈には、安藤忠雄、若林広幸、妹尾正治などのオシャレな建築が続々と誕生し、バブリ-な日本を京都も謳歌していました。このころは、北山通りでは地下鉄も工事中であり、喧騒の真っ最中です。上の写真でそのころを想像してください。

ところで、高松伸のデビュ-作といえば「織陣」(オリジン)です。老舗の西陣織の店と、オリジナリティのオリジンをかけ合わせた名前だと推測します。

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これが織陣です。すごいでしょ。バブリ-な時代に学生時代を過ごしたわたしにとって、この建物は多いに共感でき、触発された建築でした。また、建築家に限らず、芸術家のデビュ-作はその人物を象徴するものが現れているといいます。あれから20年たちました。WEEKもSYNTAXも、いまではそんなに見に行きたいとはおもいませんが、織陣はもう1度見に行きたいとおもいます。

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2008年4月22日 (火)

無門庵

建築家・岩切平氏の宮崎県での活動拠点が「無門庵」である。無門というとおり、門のない格式ばらない庵のことでもあろうし、門閥を意識させない岩切氏の精神をあらわしているのかもしれない。

岩切氏は建築家を中心とする学習グル-プ「竹の会」の代表者でもあり、昨年はその「竹の会」をあげて都城市民会館の存続運動に尽力してもらった。県内を代表する文人建築家である。そんな岩切氏も還暦を迎えたそうで、先日、そのお祝いを兼ねた小宴がこの無門庵で開かれ、わたしも行ってきた。

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敷地は、宮崎県の御池のほとり、高原町の山間部にある。庵はガラスと板張りの15坪ほどの小建築である。屋根は土を載せてあり、かつては芝(草)が植わって緑が風にそよいでいたそうだが、不在中のことも多く、手入れが行き届かずにかなりの土が流れ、現在は残った土が露出しているようだ。

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庵の内部には、多角形をした2坪ほどの小さなブ-スが3つ並んでいる。中尊寺の金色堂は「鞘堂(さやどう)」として名高いが、小さな建物と大きな建物との入れ子の構成を「鞘堂」と呼ぶ。この庵も鞘堂の一種かとおもえたが、よく見ると、小ブ-スの一部は、外壁も兼ねているので、厳密には鞘堂とはいえないかもしれない。

この内部のブ-スのふつたつは、「竹の会」のワ-クショップで製作したそうで、建築教育にかける岩切氏の情熱と建築家としての創造力がうかがえる。

小宴の開かれた外部の円形のテラスに切られているおたまじゃくしの池に、小さな青がえるが、体に似合わぬ野太い声でゲコゲコと鳴いていた夕べであった。

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2008年4月12日 (土)

都ホテル・佳水園

桂離宮に続いて、京都のとっておきの数奇屋建築を紹介しておきます。巨匠・村野藤吾の代表作、都ホテルの佳水園です。都城市民会館とおなじく、DOCOMOMO選定建物でもあります。

京都市街を一望する東山の中腹に、京都を代表するホテル・都ホテルがあります。(現在はウエスティン都ホテルと名が変わっているようです)村野藤吾が一貫して設計を担当してきたホテルでもあります。このホテルの正面玄関からロビ-に入り、エレベ-タ-で7階か8階かでおり、いったん外に出ると、ホテルの別館である佳水園に通じる通路に出ます。

このホテルは傾斜地に建っているため、このようなふしぎな動線になります。近代的な高層ホテルの裏庭に、喧騒から切り離された静寂な数奇屋の佇まいがあり、こんなところが京都らしい奥ゆかしさです。竣工は1959年ですので、まもなく50年にならんとしています。

Scan10061_2 この門をくぐると佳水園

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薄い水平線の重なりで、みごとな造形美をつくりだしています。

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かつては、見学したいとフロントに申し出ると、案内してくれたそうです。一流のホテルですので、そういうサ-ビスも行き届いていました。ウエスティンと名を変えてからはどうなのかわかりません。

佳水園の庭は高名な庭師・7代目小川治兵衛(植治)の長男・白楊の作です。なお、植治はこのホテルの本館の庭を担当していますので、庭好きな人にも必見のホテルです。

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2008年4月10日 (木)

桂離宮

わたしは設計の修行を京都でおこないました。さる学校の先生に、「建築をやるんなら京都に行かないとだめだよ」と言われたからです。

このブログの「建築見て歩き」カテゴリ-で、これまで見学した中での最高ランクの建物として豊田市美術館、名護市庁舎を紹介しました。まだ、東北の「仙台メディアテ-ク」、四国の「香川県庁舎」など、印象深い建築はたくさんありますが、きょうは、関西のとっておきの建築を紹介します。

わたしは京都に行って、先生の言った意味がなんとなくわかりました。つまり、京都には日本のすべてがあるということです。わたしたちが、日本・ジャパニ-ズと言ったときに、考え付くほとんどのものは京都にありました。建築しかり、お茶、華道などの文化、宮廷貴族、精緻で美しい自然、洗練された都市生活。民族学者の梅棹忠夫氏は「日本が滅び去っても、京都だけあれば日本は残る」という意味のことを言っていますが、ある意味、それは正しいのでした。

ということで、わたしは現代の建築家であり、現代の建築を模索しますが、じつは和風・数奇屋建築も得意としています。(まだ実作は一軒「川沿いの住宅」しかありませんが)

前置きはこのくらいにして、日本が世界に誇る数奇屋の美学「桂離宮」です。

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桂離宮は建築もいいのですが、庭もみごとです。とくに、石の扱いがすばらしいの一言につきます。ひとつひとつの石全てが、探してきて置いたように完璧に決まっています。

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有名な市松のふすま。

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桂離宮は広大な敷地にたくさんの建築物を擁しています。広い池を中心とした回遊式庭園のあちこちに、お茶室や休憩所などの小建物が配され、そのすべてに神経の行き届いた仕事がしてあります。その奥に主屋である御殿が建っていますが、こちらは内部は見学できません。ちょっと遠くからうかがうのみです。

見学を希望する人は、管理する宮内庁の京都事務所に往復ハガキで1ヶ月ほど前に申しこむ必要があります。入場料無料で、日本の粋を堪能できます。ぜひご覧あれ。

もっと見たい人は写真ギャラリ-へ

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2008年3月22日 (土)

都城の石蔵

都城に霧の蔵ブルワリ-という施設があり、連日大型バスがひっきりなしにやってきて、数百人の観光客でにぎわっています。ここには「霧島」というブランドの焼酎を製造する工場があり、その製造工程を見学することができます。いまや、芋焼酎では日本一のブランドに成長した「霧島」は、おりからの焼酎ブ-ムということもあり、連日賑わっているわけです。

その売店とレストランを兼ねているのがブルワリ-棟という建物であり、名称は地ビ-ルの製造販売もおこなっていることからきています。工場、ホ-ル、記念館などを擁するこの広い敷地内で現在建設工事がおこなわれており、ひとつはベ-カリ-棟の新築(6月竣工予定)であり、もうひとつは既存レストラン棟の増築です。この増築工事の方の設計監理を当事務所が担当していますので、このところ霧の蔵にあしげしく通っています。

さて、話は<霧の蔵>ではなく<石の蔵>です。このまえ、ある人から「石蔵をつくりたいんだけど」という相談を受けました。はて、霧の蔵ならともかく、石の蔵はやったことがない。既存の石蔵は市内にいくつかある。おそらく、近辺で石が採れるのであろう。かつては住宅の塀や門に切石がよく使われていたし、墓石も古いものは地元の石を使用していて、古びるつれ苔むしてきて風情があった。しかし、現在では墓石は海外の御影石に、塀や門柱などもコンクリ―トブロックなどの二次製品に置きかえられ、木造や鉄骨造の倉庫は建つが、土蔵はおろか石蔵が新設されることはまずない。したがってコストも比較しようがないが、たぶん安いものではないだろうし、組石造なので法規上も制約がある。とりあえず、そんなことを思い浮かべます。

かつては、ちょっと裕福な人たちの家には蔵があり、土蔵あるいは石蔵だった。市の中心街あるいは古い集落にはそんな蔵を持つ家がめずらしくはなかっただろう。それより所得の低い人は板壁の納屋か倉庫となる。蔵はなによりも防火性が重視される。その家のお宝を保管する場所である。だから、土蔵の場合は木部はすべて厚い土壁で覆われ、表面を白いしっくいで化粧・保護される。石蔵は耐火性の心配がないから切石を積み上げたそのままである。多くは表面にコブや鑿のあとをそのまま残した仕上げになっている。

さて、コストであるが、土蔵と石蔵、どちらが金がかかるのであろう。なんとなく石蔵の方が高級のような気もするが、木造下地に手間ひまをかけて厚い土壁をつくり、しっくい化粧をほどこす土蔵に比べて、切石を積み上げていくだけの石倉のほうが安くつくのかもしれない。このことは材料が地元で採れるかどうかにもよるだろう。たとえば、大谷石の産地である栃木では、大谷石を端正に積み上げた石蔵をよく見かけるから、おそらく石蔵の方が安上がりなのだろう。

イニシャルコスト(建設費)はよくわからないが、ランニングコスト(維持費)の方は石蔵に分がありそうな気がする。土蔵は、表面がしっくいで保護されているとはいえ、やはり年月とともに痛んでくるので補修する必要がある。一方、石蔵はほとんど手を入れる必要がない。石だってもちろん風化するのだが、数十年、100年単位ではほとんど問題にならない。ただ、石の目地の部分が、劣化して漏水の可能性がないこともないので、もっと研究する必要はあるが。屋根はどちらも木造の小屋組に瓦葺きが一般的であり、どちらも同じ条件になる。

さて、石蔵のことをちょっと調べてみようとおもい、市内にある石蔵のいくつかを見てまわることにした。ずいぶん少なくなったようでも、まだ幹線道路沿いに目に付くものがいくつかあったりして、下調べをしてくれたM君といっしょに見てまわった。

A  Miyamaru01001 Miyamaru01002

B  200803211501

C  200803211502 200803211505

AとBは市街地にあるもの。Bは3間×7間程度の面積があり、Aよりはひとまわり大きい。どちらも内部は2階建てになっているようだ。Aの所有者のTさんに話を聞いてみたところ、昭和31年につくったものであり、かつてはコメが満載されていたとのことだが、現在は農地もほとんどなくなり、物置として使用しているとのこと。台風時には家族でここに避難し、外の暴風とは無縁でいられたと懐かしんでおられた。

Cは郊外の古い集落にあるもので、こちらは2間×3間のかわいらしい石蔵だ。こちらは戦前の昭和8年につくられたもので、屋根のすぐ下の部分に  、戦争中の爆弾の破片で石がかきとられた跡がある。外壁の一部に施工者である有水の石工・神田氏の名が刻んであった。内部に案内されてびっくりしたのは、なんとご主人の趣味のカラオケル-ムになっていたからだ。写真のようにミラ-ボ-ルが現役であり、音響・照明ともに凝りに凝ったもので、かなりの資金を費やしたらしい。ただ、現在はまったく使っていないとのこと。

D  200803211513 200803211512

これは山田町の谷頭駅のすぐ近くにあるJAの倉庫。かなり大きい石蔵が3棟並んでいる。今回見学したなかでは、唯一の切妻(きりづま)の屋根だ。たぶん、石を三画形に積み上げることを嫌ったのだろうが、ほとんどの石蔵は寄棟(よせむね)の屋根である。

E  200803211519 200803211520

こちらは庄内町のJA倉庫。昨日紹介した都城島津家の墓所のとなりにある。こちらも大型のもので5間×14間ほどの面積がある。

F  200803211516 200803211517

こちらは近郊の商家のもの。蔵というのは矩形のものがほとんどだが、左側の写真にあるように、張り出し部分が接続していて、雁行した平面をしているのがめずらしい。増築したものなのか当初からのものかは不明。

G  200803211528

これは番外編だが、Fのちかくで見つけたコンクリ―トブロック造の蔵の換気口。腰の部分までは切り石が積まれ、その上部がブロック造であり、ところどころ、その腰の石部分に写真のようにブロックが嵌め込まれている。よくみるとそのブロックの下に穴があけられている。ご存知のようにブロックには三つの穴が縦にあいており、そこに鉄筋を通したり軽量化をはかっているのだが、たぶん、その空隙を利用して換気口にしているのだと推測する。おそらく、内部はこの嵌め込まれたブロックの上部に同じように穴がかきとられているのだろう。雨を入れずに換気をしたいという工夫に感心した。ちなみに、このブロックの換気口はつい最近のもののようだ。

こうして、約半日かけて近在の蔵を見てまわった。市内にはまだ石蔵はいくつかあるはずであり、知っているものでも居酒屋に改装されているものや、豪邸に併設されたものなどがある。おそらく、探せばまだまだあるだろうし、今回も取材であすこにもあるという話をいくつか聞いたので、機会をみてまた探索してみたい。しかし、おもっていた以上に少ないようでもある。石なので耐久性は抜群なのであろうが、敷地内の構成上、蔵が道路側にあることも多く、道路拡張などのさい、そのいくつかは失われていったとも聞いた。

ただ、築50年以上をへて、みすぼらしくなるどころか、ますます味わいというか風情をかもしだしているのはどの蔵も共通している。わたしたちのつくる現代建築が、年月を経るにしたがってそのような味わいを出しているものがはたしていくつあるだろうか。やはり、本物をきちんとつくって、都市のストックとして残していくことがそのまちの魅力にも建築主の利益にもつながるわけで、そんなことをあらためて考えさせられる一日だった。

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2008年3月14日 (金)

名護市庁舎

沖縄大好きのメンソ-レナカタさんから、紀行文が読みたいというリクエストがありましたので、沖縄といえば、この建物しかないというスゴイ建物を紹介しておきます。

ちなみに、メンソ-レは沖縄で「ようこそ・いらっしゃい」という意味であり、メンソレ-タムは家庭の常備薬ですが、この薬は著名な建築家であるヴォ-リズのはじめた会社がつくっています(近江兄弟社)。

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この迫力、すごいでしょ。設計したのは象設計集団というちょっと変わった名前の設計事務所です。この事務所で修行して独立した人たちは、イルカ、トド、クジラなど動物の名を冠した設計事務所を全国各地に営んでいて、それらの連合体としてチ-ムZOOという動物園的な組織体を結成して、それぞれの仕事で連携していいるという、たいへんユニ-クな設計組織です。

この建物もユニ-クです。沖縄に行ったら、ぜひ名護まで足をのばしてこの傑作を見てくることをお勧めします。こんな市庁舎だったら、健全な仕事をするだろうとおもいます。住民と市庁舎の関わりかた、あり様を示唆している建物です。これが霞ヶ関の庁舎だったら、日本はもっと素敵な国になっていると信じます。それだけの力が建築にあることを教えてくれる建物でもあります。

竣工は1981年。もうすぐ30年にならんとするところです。ずいぶん奇抜で金がかかっているように感じるかもしれませんが、コンクリ-トブロック使用したロ-コスト建築です。沖縄は強烈な台風が襲撃しますので、ブロック造は普及していました。また、赤い土も沖縄固有のものであり、その地域性を利用した2色のブロックで、地域性とロ-コストを実現させているわけです。また、この建物は設計コンペで選ばれたものでもあります。

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南側の外壁に、沖縄の守護神であり名物であるシ-サ-が一面に置かれています。これを見ると、ハイサイおじさんを踊りたくなります。

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これは庁舎の内部です。天井に近い壁に四角い穴が並んでいるのが見えるでしょうか。これは自然の風をよぶ風穴です。身を焦がすほどの強烈な太陽光線が降りそそぐ沖縄ですが、木陰で涼風にあたっていれば、わりとしのぎやすいわけです。そこで、建物に自然通風のし掛けを内蔵しているわけです。もちろん、ク-ラ-は当初はありませんでした。現在では、部分的にはエアコンもあるようですし、ク-ラ-に慣れきった現代人には、自然の風だけでは我慢できないようで、フロアのそこいら中に扇風機がタコ足配線でつながれていたのを覚えています。

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2007年12月27日 (木)

山之口の納骨堂

都城市の山之口町に安楽寺というお寺があります。国道269号線沿いにある由緒ある大きなお寺で、ここにコンクリ-ト造のかわった形の納骨堂があり、以前から気になっていました。本願寺形式のりっぱな木造の本堂のとなりに、幾何学的なコンクリ-トのマッスが立っているさまは、なかなかのものです。

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寺の人に話を聞かせてもらいました。設計は九州大学の光吉研究室。図面をみると、1969年6月の日付が入っていましたので、69年か70年の竣工でしょう。36、7年というところでしょうか。

この変わった形は、仏堂にぶらさがっている大きな金属製の灯篭をよく見かけますが、その形をモチ-フにしているそうです。当初は外壁もコンクリ-ト打ち放しだったそうですが、現在は吹付け塗装がしてあります。(斜めになっている下の部分は打ち放しのままです)

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薄暗い通路をまわりながら進むと、トップライトから光が落ちる階段ホ-ルに出ます。周囲には小さな祭壇がびっしりと並んでいます。天井からは大きな天蓋がぶら下がっていて、その内部は赤く塗りこめてありました。

本やネットで調べてみると、設計者は九州大学の故光吉健次氏のようです。検索では「明日の建築と都市」という著作がいっぱい出てきました。九大創立50周年記念館ほか、九州各地にたくさんの建築作品があるようです。なんでも、その当時、このお寺の檀家の子息が光吉研究室に在籍していたとのこと。宗教建築は、伝統的な形が一般的ですが、ときにモニュメンタルな形態のものを見ることがあります。まだ建て替えなどの話はないということですので、このユニ-クな納骨堂をしばらくは見ることができそうです。

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2007年12月24日 (月)

西都原考古博物館

宮崎県のほぼ中央部に西都市がある。その市街地のちょっと西側の小高い丘を上ると、全国でも有数の古墳群がひろがる。その数、約300。おなじみの前方後円墳から円墳、方墳、帆立貝型、横穴式とバリエ-ションも豊富である。

この古墳群のなかで、もっとも大きい男狭穂(おさほ)塚と女狭穂(めさほ)塚の近くに、宮崎県立考古博物館がある。昨日、所用で西都市を訪問したついでに、この博物館に行ってみた。おなじ宮崎県に住んでいるので、ここにはちょくちょく来たことがある。今回は、かれこれ3年ぶりくらいの訪問だろうか。

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時間があったので、博物館を見物しておこうとおもって行ったところ、ま新しいりっぱな建物が見えた。おや、新しい施設ができたらしい。さっそく車を停めて石段を昇ってみる。なんとなく地理感がよみがえってきた。この丘のもうちょっと向こうに、半地下式の博物館と、家型古墳をモチ-フにした木造の建物があったはずだ。たしか、木造の建物の設計者は広瀬さんという50年代のモダニズム住宅をリ-ドした建築家であり、軽量鉄骨のスレンダ-かつスタイリッシュなデザインで知られている。

あたらしい博物館の受付で話を聞いてみる。「この博物館は平成16年の4月に開館しました。今まであった半地下式の資料館はもうありません。木造の体験館はこの先にあります」とのこと。来年の4月でもう4年になるということになる。前回来たときは、ぜんぜん気がつかなかった。人の記憶はあてにならないものだ。

内部の展示は、おそろしく現代的な凝ったものだった。映像と照明、模型を駆使し、5感にひびく展示を実践してある。まるで、どこかの万博のパビリオンみたいだ。ぜひ、西都に行った際は立ち寄ってみてください。安藤知事のときに、県立の文化施設は入場料が無料になっています。もちろん、ここも無料です、もったいないくらいです。

ただ、建築家としてのわたし的な評価はバツ。建物に品がない。石貼りの配色がよくない。景観的にもうまくいっているとはいえない。展示に金が掛かりすぎているわりには、西都原らしさとわかりやすくする工夫が感じられない。展示会社の好きなようにやられているようだ。ただし、図書館を併設し、収蔵庫と研究施設も一部オ-プンにし、知的好奇心にこたえているのはマル。

ミシュランのガイドマップ風に採点すると、かろうじて☆ひとつというところか。ついでに、西都からの帰りに食べた高岡の「スミちゃんラ-メン」は☆☆でした。

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2007年12月18日 (火)

豊田市美術館

いままで、全国の建築をそこそこ見て歩いたけど、「いちばん印象に残っているのは」と聞かれたら、やはり阪神淡路大地震後の神戸だろうか。その衝撃はすさまじかった。

それはそうだ、このエネルギ-は人間のものではない。では、個別の建築ではというと、まず思い浮かぶのが「豊田市美術館」(1995年)だろうか。

設計者は谷口吉生さん。この人は黙して語らずの代表ともいっていい建築家で、先になくなった黒川紀章氏を「饒舌」な建築家の代表格とすれば、谷口氏はその対極にある。本を出さない、コメントもあまりしない。「ぼくは設計をする人間だから、しゃべったり書いたりするのは止めようとおもっている。」すべては作品によってのみ語られる、というスタンスをとっている。そのスタイルはカッコよすぎるが、その作品だってカッコよすぎていて、わたしは豊田市美術館を見て、「かなわない」と心底おもった。もっとも、わたしは感動しやすい方なので、しょっちゅう「かなわない」とおもっているのだが、これまでで最上級のものだった。

1626265_img アプロ-チ横のスロ-プを上がると、池のあるテラスに出る。

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この外観だけで、一級の美術品だ。「ちりとてちん」じゃないけど、「底抜けに」うまい、きれい、絵になる。

内部も充実していて、巨大な現代美術の作品と張り合って一歩も譲らないし、かといってこれみよがしの空間にもしていない。これは2年前の展示だが、ヤノベケンジ氏の強大な「ジャイアントとらやん」が、気持ちよさそうに鎮座していた。

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隣接して茶室「童子苑」があり、これも谷口氏の仕事。和風だって一流の仕事をする。ここまでやられると、イヤミに感じられるほどだ。

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2年前にこの美術館を見たときは、おなじ建築家として打ちのめされた気分だったが、元来、忘れやすい性格なので、「いまに見ておれ、オレだって」という気は取り戻している。わたしとしては、ひとつひとつの仕事に誠実に向き合うしかないのだが、この心意気だけでもないよりはいいだろう。

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2007年12月 9日 (日)

熊本県営保田窪団地

名匠 山本理顕さんの共同住宅の傑作。かつて、これほどの衝撃を与えた公共住宅はなかったとおもう。

久しぶりに見学したら、かなり変更が加えられていた。

まず、エレベ-タ-が付いたこと。そして、外部の共用廊下が延長されていた。鉄骨の柱を建て、一般的な片廊下型の廊下になるように、既存の廊下を延長しているのである。これで、入居者の各住戸間のアクセスは便利になったといえる。

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この建物の最大のポイントは、入居者専用の中庭があることだ。ロの字型平面の中央がひろい庭になっていて、外部からは進入することはできない。住戸の入居者かゲストしかこの中庭は使用できないのである。もっとも、ロの字型の一辺はステ-ジになっていて、イベント時のゲ-トがあるので、団地のお祭りや庭のメンテナンス時には外部にアクセスできるようになっている。

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2007年12月 4日 (火)

ゆうステ-ション

葉祥栄氏の鮮烈な作品。熊本県は阿蘇の北方、小国町にある。

この建物は、すでに何回も見学に行ったのであるが、今回、数年ぶりに見学して、あらためて強烈なその個性と建築の魅力を体感した。いい建築だ。

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2007年11月28日 (水)

孤風院(コフィン)

木島安史さんという建築家がいた。屋号がYASであり、わたしの拙宅「YASの家」に通じるものがあり、親近感をもっている建築家であった。惜しいことに、15年ほど前に若くして亡くなったのであるが、氏が熊本在住の長きにわたり、阿蘇の麓に庵を結んでいたのが「孤風院」である。

もともと、熊本大学工学部の講堂として、明治40年に建てられたものであり、昭和50年ごろに解体が決定していたのを、それを惜しんだ木島氏が譲り受け、阿蘇の別荘地に自費で移築し、自邸としていたものである。

今回、熊本県内の大学生を中心とするチ-ムが、内部の壁を修復し、オ-プンハウスとして公開するイベントがあった。かねがね、その噂は耳にしていたので行きたいとおもっていたのだった。

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2007年11月21日 (水)

道成寺

和歌山県にある著名な寺というか、歌舞伎の「娘道成寺」で名高いと言った方がいいかもしれない名刹、道成寺を紹介します。

この寺は「安珍・清姫」伝説の寺かと思いきや、創建が701年という、和歌山随一の古刹であり、国宝の仏像(3躯)他多数の重文をもつ文化財の宝庫でもあった。

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バスガイドさんが言うには、この境内にいたる石段は、登りやすいことで有名であり、いまでも建築家が実測に来るとのこと。100段に足らない階段なので、さっそく試してみた。たしかに、先日訪れた熊野本宮大社の石段は、スケ-ルが大きく豪快であるので、けして昇りやすい階段ではなく、建築基準法では階段の寸法を細かく規定していて、その基準からは逸脱する寸法です(ただし、建築物ではない外部の石段などは法規の範囲外)。しかし、豪快な階段というか石段は、全国の神社にまんべんなくあり、宮崎県の高崎町にある東霧島(つまきりしま)神社は、鬼が一夜で造ったという、まさしく豪快な石段が数百段も続き、登山に等しいほどの体力を要します。こんな伝説をもつ豪快な階段はたくさんあります。

はなしがそれましたが、いちおう建築家として、試しに上り下りしてみたところ、あいにくスケ-ルを持参していなかったので推量ですが、踏面(階段の水平面)が42センチ、蹴上げ(階段の垂直面)が15センチといった寸法でしょうか。階段の寸法は、建築家は重視しますので、いろんな公式が提唱されています。そのうち、わたしが参考にしているのは踏み面と蹴上げの合計を45センチとするもので、幅30センチに対して高さ15センチが階段の定番(余裕のある)であり、この公式に一致します。もうひとつ、わたしが尊重しているのは、踏み面+蹴上げの2倍=63センチ内外というもので、先ほどの巾30センチ高さ15センチだと60になり、ちょっと物足りない。住宅だと巾22センチで高さ20センチが64となり、これはたしかに昇りやすいし、「いい階段ですね」と好評です。

さて、道成寺の階段は、巾が42で高さ15として、最初の公式だと57になり、これはちょっと大きい。2番目の公式だと72となり、これも大きい。たしかに、わたしには、ちょっと大きい寸法だろうという実感をもちましたが、最初の20段目くらいまではちょうどいい昇りごこちでした。それを過ぎてくると、ちょっときつくなる程度の勾配でしょうか。もっとも、先の公式は万能ではなく、わたしのこれまでの体験では、巾(踏み面)が50センチ程度、高さ10センチくらいの階段が上りやすかったこともあり、これですと、公式の数値にはあてはまりません。かなりゆるやかな階段になります。つい先日、宮崎県総合博物館で開催中の「早大エジプト発掘40年展」に展示してあった、早大チ-ムがさいしょに発掘の成果を見せたという、マルカタ南遺跡の「魚の丘」階段が、ぴったりこの寸法でした。

ただし、上りやすい階段が下りやすい階段かというと、いちがいにはそうと言いきれないし、大人とこども、体力や年齢、体格、土足と上履きでも快適な寸法はまったく違ってきます。幼稚園の階段を上がったひとは、そのまだるっこしさを知っているでしょう。階段は難しい。まして、建築には見せる階段としての要素も求められることがあります。

つい、階段のはなしが長くなりました。本論の道成寺です。

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このように、道成寺は芸能伝説だけでなく、建築的にも文化財的にも、多大の魅力をもつお寺であることを知りました。

もうひとつ、わたしたち都城の人間が興味深くおもったことがあり、それはこの寺に伝わる「髪長姫」伝説です。

このお寺は、聖武天皇の父親である文武天皇の后が寄進したものと伝えられています。その后こそが髪長姫であり、この地(日高郡川辺町)の出身であったそうです。

姫は幼少のころ、まったく髪の毛がなかったそうですが、あるとき海に沈む光り輝く観音様を、姫の母親が決死の覚悟で拾い上げ、それを拝んでいるうちに、みめ麗しい黒髪の麗人となり、天皇の后となりました。その御礼が道成寺だったということです。

いっぽう、都城にも「髪長媛」がいて、このお方は仁徳天皇の后となられました。仁徳は西暦の430年ごろと推定されています。文武は700年ごろの人物ですので、300年ほど、都城の髪長媛の方が先に生まれたようです。歴史と建築、どちらもロマンがたいせつです。

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2007年11月20日 (火)

ホテル川久

和歌山県の観光地・白浜にホテル川久がある。十数年前のバブル華やかりしころ、世界中の一流の品と技術の粋を結集してつくられた会員制の豪華ホテルであり、白浜の老舗旅館「川久」のリニュ-アルプロジェクトであった。

設計は永田・北野設計事務所。たしか、この2人しかこのプロジェクトを遂行できる人物はいないとして白羽の矢がたてられたと、当時の建築雑誌に書いてあった。

竣工から十数年を経て、かつてのオ-ナ-は身売りして、現在は北海道のリゾ-ト再建屋さんが持ち主であると、案内してくれたタクシ-の運転手は言う。ついでに、白浜のもう一軒の老舗旅館もそうらしい。パンダで有名なアドベンチャ-ワ-ルドの盛況を目の当たりにしたばかりだが、栄枯盛衰はどこにでもあるのである。

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今回はひとり4万7千円のツア-で宮崎から白浜へやってきた。もちろんホテルはもっと安いところであり、川久は見学だけしてきたもの。うらぶれたとはいえ、こんな高級ホテルにはこの値段では泊れない。かつては宿泊代だけでこれ以上だっただろうが、現在では、安い部屋なら3万円程度で泊れるようだ。ネットで廉価版を探せばもっと安く泊れるかもしれない。このホテルが白浜にふさわしいかは別として、一度は泊ってみる価値はある。

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2007年3月20日 (火)

山之口の島津寒天工場跡

都城から宮崎へ269号線を行く途中に、山之口町がある。人形浄瑠璃の伝承や島津藩特有の麓地区のようすがよく残っているおだやかな雰囲気のまちだ。

このまちを通るたびに気になっていたのだが、「島津寒天工場跡」という看板が国道沿いに立っている。ちょっと歴史好きなわたしとしては、「島津」と聞いて興味がそそられるのであった。以前、2回ほど通り掛かりに行ってみようという気になり、看板の方向に車を向けたことがあるのだが、さっぱりわからなかった。

日本の道路看板は最低だとわたしはつねづね感じている。見知らぬ土地に行き、看板をたよりに車を進めてひどい目にあったことが何度もある。

道を知らない人のために看板はあるはずだが、新しい道ができても古い看板がそのまま残っていて、新しい道なら半分で行けることを目的地に着いてから知らされたり、どっちに行けばいいのかわからなくなったり、途中でまったく表示がなくなっていたり、見知らぬ土地を地図と看板を頼りに建築行脚することがままあるわたしは、日本の道路看板は非常に不親切なものだと感じている。

それはさておき、今回も途中でわからなくなったが、地元の人がいたので道を尋ね、なんとか、数年越しの目的を達することができた。

山之口の麓地区から北へ2キロメ-トルほど行くと、永野という集落がある。そこにこの寒天工場はあった。想像していたよりグッドなものだった。

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なんでも、幕末のころ、藩財政に困窮していた島津藩がつくったものらしい。この地が選ばれたのは、寒天の製造に適した自然環境であることと、幕府の目を逃れるためであるとある。なぜ寒天が当時、特産物だったのか、ロシアや中国に密輸されたのかは書いてないのでわからないが、幕末に最新式の製鉄所や造船所などを有し、有数の武力で明治維新の立役者となった島津藩にはリッチなイメ-ジがあったが、財政改革のために山之口で寒天をつくっていとは。これだから歴史はおもしろい。最盛期にはここで100人以上の人たちがはたらいていたそうである。

原料のテングサを煮る石組のカマドが数基並んでいて、掘り下げた焚口が現在も良好なかたちで残っている。いい史跡である。それを覆う大小ふたつの萱葺きの上屋がかかっているのだが、おそらく、これはあたらしいものだとおもう。おそらく、地元の人たちが屋根の手入れなどをしているのだろうし、工場跡の内部も定期的に清掃したりしてくれているのだろうと推測する。こうして、地元の人たちの手で古いものがたいせつに残されていく。こうして残されたものが、後世、ますます高く評価されていきます。そうやって法隆寺も東大寺も現在に受け継がれてきました。

かたや、都城唯一といっていい貴重な近代建築である都城市民会館はどうなるのでしょう。解体に83%が賛成?どうも信じられませんが。

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2007年2月 1日 (木)

12年前の神戸

1月も終わり2月となりました。世間では記録的な暖冬なんだそうですが、ここ都城はけっこう寒い日が続いていて、暖冬の実感がわきません。それよりも、ことしの1月は「そのまんま東」知事の誕生で、宮崎も急に活気がでてきたようでもありました。

さて、12年前の2月は、わたしにとって未曾有の惨劇を目の当たりにした月でした。阪神淡路大震災です。私用で京都に行く用事ができ、その機会に2日間、まだ交通のマヒしたままの神戸方面を足を棒にして歩きまわり、惨状をこの目とフィルムに焼き付けてきました。建築家を志して以来、いままで、できるだけたくさんの建築や景観を目にするよう心がけてきましたが、やはり、これを越える衝撃はいまだありません。

毎年、1月17日になると、あの惨劇をしっかり記憶しておくために、自宅道路際に設置してある自前の掲示板に、そのときの神戸の写真を張り出しています。わたしの家の前は小中・高校生の通学路であり、毎朝たくさんの生徒・学生が列をなして行き交います。もしかしたら、将来建築にかかわることになるかもしれない子どもたちに、建築に関するいろいろな情報を提供することを目的のひとつとした掲示板です。

建築構造計算の偽装という「おぞましい」事件が発覚しました。効率と拝金主義に専門家としてのプライドもモラルもはじけ飛ばされています。設計者に対して、製図板の前でコツコツと図面を引いている、営業の嫌いな生真面目な技術者たち、というイメ-ジをもっていたわたしには、設計界もここまできたかという衝撃といきどおりを感じました。あってはならないことですが、設計者も人間ですので、そういうことが起こり得るのでしょう。建築の根本はまず安全にあるという自明のことさえ、日常の繁忙と貧困は、それを忘れさせようと働くことがあります。もちろん、そんな環境下でも、最後の一線を守って踏みとどまる精神力と良心を建築家は矜持としてもっていますが、建築設計を単なるビジネスのひとつとしてとらえている、ブロ-カ-まがいの設計屋さんが存在することもたしかです。

毎年、1月になると、あの惨劇を思い起こし、自戒の念を込めてこれらの写真を用意します。

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2006年8月29日 (火)

熊本県立農業大学 学生寮

建築探偵の藤森さんが建築作品もつくるようになり、なんと、建築学会賞まで取ってしまったという作品。2000年竣工。熊本県合志町農業公園に隣接。

熊本県はア-トポリス事業というのをやっていて、県の発注する建築物のうち、年に数点、これは、というものを国内外で活躍する建築家に依頼する。細川さんが知事のころにはじめたことなので、もうかれこれ15年くらい、いやもっとたっているのかもしれない。

おかげで、熊本県は東京と大阪を除くと、全国で最も現代建築の意欲作に富んだ県となった。わたしが熊本に建築行脚の旅に出ることも、ここ10年ほど、毎年のように続いているのである。おかげで、わたしの家族はいい迷惑をしていることも事実である。

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さすがに、縄文人、あるいは野蛮人といわれる藤森教授だけあって、「これでもか」というディテ-ルのオンパレ-ド。でも、ふしぎと全体の計画はすっきり正解を出しているところは、古今東西の名建築を見尽くしてきた一流の建築史学者であるからか。

真夏の昼下がりに訪問したわりには、ディテ-ルの暑苦しさに比して、館内は涼しかったように感じた。これも藤森さんの得意とするエコロジ-ワ-ルドが効いていたのかも。

なにはともあれ、「見てよかった」とおもえる一作。ぜひご覧あれ。

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2006年8月14日 (月)

宮崎市の天空ビル

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 宮崎市に変わった建物ができた、と知人の設計屋さんが教えてくれた。行ってみると、建物が細い脚で高々と中空に持ち上げられている。こういう、柱だけの1偕部分をピロティといい、そう珍しいものではないのだが、ここの特徴は、高さが高いこと、緑の芝になっていることで、ただの薄くらい駐車場から脱却して、開放的な気持ちのいい有効な空間になっている。

 柱がハの字に傾斜していることの意味は、構造上の要求なのか、意匠上のことなのか不明だが、踏ん張っているという印象をあたえてくれる。

 天空に差し出された2階の事務所は、さぞや気持ちのいい空間だろうと推測するが、周囲は建て混んだ市街地なので、眺望はあまり期待できないだろう。しかし、この事務所の形態に顕れた意気は、訪れたすべての人に感じてもらえるだろうし、スタッフの仕事にもいい影響をあたえるだろう。

 設計はコギト設計とかいう、宮崎でもっとも注目をあつめている建築設計事務所だそうだ。わたしは直接の面識はないけれども、代表者は同じ学校の出身ということで、名前を聞いたことはある。宮崎の建築文化向上のため、いい仕事をして欲しい。

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2006年8月13日 (日)

日南文化センタ-

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 今はなき国家的建築家・丹下健三氏の初期の作品。代々木のオリンピックプ-ルより以前のものが、南九州は日南市に存在する。

 1962年の竣工なので、ことしで44年になる。数年前、日南市は新しいホ-ルの建設を断念し、この会館を改修して使いつづける決断をしたので、とりあえずは取り壊しという心配はない。ただ、600席というキャパしかないので、もっと大きいものをという声は、常にくすぶるつづけるだろう。

 当初は、内外ともコンクリ-トの打ち放しだったそうだが、現在は外部は吹付け仕上げ、ホ-ルの内部はクロス貼りになっている。ホ-ルの内部は、改修前はコンクリ-トの要塞のようだったという。おそらくそうだろう。

 写真で見てのとおり、建物は内側に傾斜していて、この建物には垂直な部分はない。平面的にもそうであり、すべての部分が斜めになっており、直角というものは存在しない。 

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2006年7月 8日 (土)

串間市の吉松邸

 宮崎県の最南端に串間市がある。野生馬の都井岬やサルの幸島で有名な自然ゆたかなまちである。

 このまちは韓半島から対馬を経て、九州を串刺しにしたとき(つまり、古代の文明軸)、端っこにあたるから串間という説とか、大陸から高貴な王族が亡命して住みついた場所であるなどの説や、 また、ここの「王の山」という場所から江戸時代に璧(へき)が出土し、現在は東京の前田家の所有物になっているが、これがたいへん貴重なもので、国宝に値するともいわれているなど、串間は、そんな古代のロマンあふれるところでもあった。

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 その串間の中心街に吉松邸という県内屈指の大正期の邸宅がある。

 資料によると、大正10年築で棟梁は町田為三郎という東京の大工、延べ床面積は684㎡(207坪)という木造2階建ての建物である。3年前に市の所有となり、登録文化財に指定されている。広大な敷地に雁行して建つ豪勢な邸宅と、愛宕社という私有の神社まで敷地内にあり、毎年7月の夏祭りは市内最大の夏祭りとしてにぎわうという。ちなみに、この神社はこのときだけ一般に開放されるそうだ。

 市では、いよいよこの夏から吉松邸の修理・改修に着手し、来春からの一般公開を目指しているそうだ。財政きびしきおり、四千万円を投ずるこの事業に、一部からはムダ遣いだという批判もあるようだが、市の中心街にこれだけの可能性を秘めたものが残されているのだから、市の決断は正しいとおもう。まちづくり、あるいは中心街の活性化の起爆剤にもなりうるものだろう。串間市の発展や、成熟した市民生活を実現させる有力な素材である。こういった文化的な事業は役所にしかできない。経費をとことん切り詰めてでも、最後までこの建物を市民生活に活かして欲しい。それだけの歴史の重みと価値を有するものだ。

 この吉松邸を含む串間市中心街の再活性化計画に積極的に取り組んでいるのが地元の建築家の河野氏である。氏は「まちづくりのワ-クショップ」を企画し、エリア内にある吉松邸、市役所、大型商業施設などを結びつけたまちづくりプランを発表したり、吉松邸の活用法を模索している。

 この由緒ある広大な敷地と大正期の豪勢な邸宅をどう使っていくか、串間市の将来を左右するものになりそうだ。すでに河野氏はじめいろいろな人からアイデアが出されているという。古いものと新しいものが共存し融合することで、さらにその都市の魅力が増す。今後の展開が楽しみである。

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2006年6月22日 (木)

都城島津家 訪問

 島津家といえば、戦国の強力大名であり九州の雄である。明治維新の原動力であり、数多くの英傑を輩出している。その島津家の発祥の地とされる宮崎県の都城市に、都城島津家という殿様の家系がある。殿様とはいっても、薩摩藩内の支藩のひとつであり、一般的にいう大名というわけではない。しかし、石高 五万石程度を誇り、れっきとした小、中大名に匹敵する権勢を誇っていたたのである。

 今回、縁があってその島津家当主の屋敷の一部を見学する機会を得た。べつに、殿様の家系をあがめたり、豪華さをいいとおもっているわけではないが、わたしも建築家であるので、上質の空間や雰囲気には強い関心があり、好奇心もたくましいのである。近代和風の粋を凝らした邸宅ならよだれが出るほど好きだ。また、昭和48年にここには天皇・皇后両陛下が宿泊した由緒もある。格式でいえば、南九州有数のものであろう。かねてから見学を望んでいたのであった。

 ちなみに、この島津家の現当主である久厚氏は、たぐいまれな人格高潔の士であり、数々の要職を歴任する、日本でも相当なクラスに位置する巨人のひとりであることだけは申し添えておこう。

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島津邸 玄関前のアプロ-チ

さすがに風格がある






 この本宅は昭和10年の陸軍の大演習の際に建設されたそうだ。そういえば、3年ほど前に訪れた都城市高城町の豪商、後藤家本家も、そんな来歴だったような記憶がある。戦前は軍都として聞こえた都城らしいといえばいいだろうか。

 屋敷の総敷地は5000坪ほど。邸宅も庭園もさすがにすばらしいものだった。敷地内には、たくさんの建造物が建っているが、その中でもっともおもしろい来歴をもつのが、道路そばに建つ木造の小屋である。

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 この小屋は慶応年間のものだというから、ざっと140、150年ほど前のものということになる。もともとここにあったのではなく、剣術で名高い江戸の千葉習作道場で修行を積んだ当地のワタナベコウスケだったか(わたしの記憶違いかも)という人物が都城市内に剣道場として建てたものを後年、ここに移築したものだそうだ。とうぜん、外壁や屋根材などは後年の補修がかかっているだろうが、柱梁などの基本構造材は慶応のもののようだ。

 現在は物置小屋のように使われているが、おそらく、古さだけなら市内でも有数のものだろう。よく空襲や台風などを乗り越えてきたものだと感心する。

 そんなこんなで、とてもウンチクに富む楽しい体験をさせてもらった。じつは、わたしは歴史もけっこう好きなのだった。関係者のみなさん、ありがとうございました。

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