環境など

2008年10月22日 (水)

ゴミについて

先日、山田さん(都城市議)が遊びにきて、2、3時間ほど歓談する機会がありました。話題は多岐にわたり、雑談のあいまに、都城のゴミのことについても聞いてみました。

現在、都城市はクリ-ンセンタ-の計画をすすめていて、現在の祝吉か郡元かにあるゴミ焼却炉を別地に新規更新する予定であるようです。市がすすめている計画案は、既存の焼却炉と同タイプのものであるそうで、プラスチック系は燃やせませんので、大量の埋めたてせざる得ないゴミは残ります。しかし、最新の焼却炉のなかには、プラスチックだろうが空き缶だろうが、なんでも高音で燃やして金属類だけ炉から回収し、最終埋めたてにまわる灰や燃えカスの量がきわめて少量で済むタイプのものがあるそうで、氏はこちらの方を推奨するとのことでした。それは高コストではありますが、現在問題になっている大岩田の埋設ゴミの焼却処分も可能とのことで、その解決やゴミの最終処分場の継続確保の点ではるかに優位であり、ト-タルでは市の負担が軽減できるとの論です。

わたしは環境派でもないし、政治派でもありませんので、ゴミ問題を深く考えたことも、この問題でなにか画策しようという気もありませんが、一市民として言いたいことと感じることを書いておきます。

ひとことで言うと、ゴミに関して面倒くさいことはイヤだし、極力シンプルに合理的な手法で解決して欲しいということです。

わたしは十数年前、京都市に住んでいましたが、(現在は知りませんが)ゴミはまったく無分別でした。まさしく、分別のないわたしには最適のシステムであり、空き缶も生ゴミもまったく関知することなくゴミ袋に入れて所定の日に所定の場所へ運ぶだけです。しかも、市指定のゴミ袋はありませんので、レジ袋が使いまわしされていたように記憶します。

ところが、都城に来てからは、ゴミは2種類に分別する必要があり、生ゴミが燃えるゴミで、プラスチックが燃えないゴミだという分け方に違和感をおぼえました。多量の水分を含み、土に還元する生ゴミが燃え、石油製品であるプラスチック系が燃えないとはおもえないからです。この分け方にはすぐに慣れ、順応していますが、根本的には逆だろうという素朴な疑問は今でも消えていません。正確には、プラスチック系は焼却炉を痛めるので、ほんとうは燃えるのだけど、燃やしたくないということのようです。さらに、ダイオキシン騒動や温暖化問題がそれをあと付けました。

わたしは、市の指定するゴミ袋にきちんと分別し、さらにリサイクル置き場にもっていく紙類と空き缶、ペットボトルは別に分別して出すことが、性格的には苦でないのでせっせとそれを実行しています。しかし、京都で生まれ育ったわたしのパ-トナ-は、この分別が苦手なのか無視しているのか、「燃える」「燃えない」に関係なく近い方のゴミ袋に入れます。すると、分別はするけど分別のないわたしはカチンとくるわけです。わたしよりはるかに分別はあるけど分別しない奥さんに「きちんと分けろ」とは怖くて言えないので、黙って別のゴミ袋に入れなおすか放っておくかのどちらかであり、家庭の平和はゴミ問題に優先します。(※家庭内のくだりは創作です)

これと似たようなことが公民館単位というか、地域集落単位でもあり、ゴミをきちんと分けて出す人が出さない人を指弾し、会合ではつねに議論されます。そして、とうとう燃えないゴミは公民館にカギ付きの集積場をつくり、日曜日の一定の時間帯だけしか搬入できない決まりになりました。それまでは、月に2回、地区内に2ヶ所あった所定の集積場に持っていくようになっていて、前日の夕刻から当日の朝まで自由に持っていってましたので、便利度は下がったといっていいでしょう。しかも、近年は交替で住民が公民館のゴミ集積場に監視に立つようになって快適度も下がり、さらに今年からはゴミを持参する際は、首に名札をぶら下げることになり、ますます窮屈度は増しています。わたしはゴミで奥さんを監視する気はさらさらありませんが、集落単位ではそれが有用だと判断されたようです。

また、本来は自治会の加入とゴミを出す権利はまったく関係ないはずですが、自治会に入らないと燃えないゴミは出しにくいという状況をわざとつくりだして、自治会加入とゴミの問題がごっちゃになり、さらに混迷を深めていきます。

かつて、自治公民館の役員会でゴミの議論になったとき、「よそでもやっているように、ゴミ袋に名前を書くようにしたらどうだ」という意見が出たことがあります。そんなことは野蛮人のすることだと信じるわたしは強く反対しました。さいわい、当時の環境部長をわたしがしていたこともあり、その案は立ち消えになりました。自分たちの暮らしを便利に快適にするために自治会や行政は存在するはずですが、なかなかそういう方向にはいきませんで、むしろ、歳月を深めるほど、ますます面倒くさく、複雑に、わかりにくく、不便を強いる方向に向かいつつあるようです。

そして、その際には必ず、よそではこうやっている、もっと不便だ。うちはいい方だ、などの意見や、悪い事例が紹介されます。けして、もっと便利で快適な事例は紹介されませんし、はなはだしきは、NOと言うなら対案を出せという言い方もよくされます。しかし、これは決定的に間違いであり、つねに最上のものを理想として目指すべきで、よその不便不幸と比較する必要はありません。どれだけ理想に近づけられるかを思案するべきです。まして対案など情報も知識もない市民に出せるわけがなく、それこそが行政や専門家の仕事です。イヤなものにはNOという意思表示をし、理想を語る。市民はこれだけでいいはずであり、それに対して納得できる解決策をつくり、誠意をもって説得するのが行政であり、専門家がそれを技術的にフォロ-します。

ゴミに関していうと、分別は少ないほどよいというのがわたしの意見ですし、そもそも分別の内容が年ごとに変わり、市の定める煩瑣な分別が正確にできる人はほとんどいないでしょう。また、リサイクルはある程度経済にまかせるべきです。古くから古紙は有償で引き取られていましたし、空き缶はホ-ムレスの貴重な収入源でもあるようです。ペットボトルも回収が有効なら経済がそうするでしょう。そうでないのに市民に強要させ、目くじらを立ててよけいな紛争を起こす必要がないことはあきらかです。どうしても回収する必要があるなら、むしろ、ペットボトルを公民館が回収せず、ホ-ムレス(つまり民間)から買い上げたり、生ゴミも民間の回収システムを構築・支援したらどうでしょう。現在の経費でできるのではないでしょうか。古新聞古雑誌が換金(ちり紙に)されていたように、空き缶やペットボトル、まして生ゴミが自分の家庭で有償化されるようになったら、分別あるわたしの奥さんが、たちまち分別の鬼となることは容易に想像できます。

人間は利益にならないこと、どうでもいいとおもえることを、ちゃんとやるようにはできていませんし、どうでもいいことでケンカしたり浪費するのはイヤです。通路が迂回しているので、みんなが近道に芝生を横切る。困った管理者は「芝生に入るな」という看板を立てます。それでもみんな芝生を通るのをやめないので、こんどはガ-ドマンを雇って注意させている。そんな光景を批判した文章を見たことがありますが、これはモラルの問題ではなく、設計が悪いのです。はじめから気持ち良く歩ける最短の道をつくればいいのであり、注意する人と注意される人をわざわざ金を出して作り出す必要はありません。

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