(都城)島津

2008年6月 5日 (木)

「島津の国宝と篤姫の時代展」

日曜の大河ドラマ「篤姫」が佳境に入ってきました。「うつけ」と噂されていた嫁ぎ先である将軍が、うつけのフリをしていたのだという設定に、オット!と興味をひかれたばかりのきょうこのごろ、本日ある人から、「島津の国宝と篤姫の時代」展覧会のチケットをいただきました。

この展覧会は数年前オ-プンした九州国立博物館で、ことしの7月12日から8月24日にかけて開催されるものです。開館以来、次々と大型で魅力的な展覧会を企画して、その存在を主張している同博物館の、またしてもタイムリ-な企画に拍手をおくりたいと考えます。

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これがそのチラシです。戦国時代から雄藩として聞こえ、明治維新の原動力となる実力のあった薩摩藩だけに、すぐれた美術工芸品や古文書類をこんにちに残してくれてます。現在は東京大学史料編纂所が所持する莫大な資料から、選りすぐりの品を選んでの展覧会だそうで、期待できそうです。

ところで、ここからが本題なのですが、上のチラシの右側に見えている鎧(よろい)は、都城島津に縁のあるもので、重要文化財に指定されているものですが、所有者は都城市となっています。正確にいうと、市内在住の個人蔵なのですが、個人では貴重な文化財を管理することは困難ですので、市に寄託しているものなのだそうで、展覧会のチケットをわたしにくれた人物が、その所有者の縁戚にあたるとのことでした。そんなわけで、博物館からチケットが送付されたので、あなたは歴史好きみたいだからあげる、ということなのでした。

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もうひとつ、上の「虎狩図屏風」も都城島津の伝来品です。こちらも上の鎧とおなじく今回の展覧会に出品されます。おそらく、こちらの品は、先年、都城島津の現当主である島津久厚氏が都城市に寄贈した千点に及ぶお宝に含まれていたものでしょう。したがって、現在の所有者は都城市であるはずです。都城に存在する貴重な宝が、今回の展覧会に2点も出品される(もしかしたら、もっとあるのかもしれませんが)ことは快挙です。南九州という、歴史的に全国でもっとも貧しい経済圏のひとつであり、そのまた貧しいシラス台地という地に位置する都城に、これだけの品が残されていることを誇りにおもわずにはいられません。

さいごに、現在、都城観光協会が都城島津のマスコットキャラクタ-のネ-ミングを募集していますので、その紹介をしておきます。昨今、すっかりマスコットキャラクタ-ばやりで、セント君やマント君がマスコミをにぎわせていて、またキャラクタ-かよと言いたくもなりますが、都城島津を象徴するいいネ-ミングができましたら、それはそれでいいことですので、フルって応募してください。詳しい内容は都城観光協会までお願いします。

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2008年3月21日 (金)

庄内の島津墓地と兼喜神社

先に、都城の島津墓地について紹介しました。都城島津家(北郷家)の歴代の当主他たくさんの墓石が並んでいます。じつは、もうひとつの島津墓地がありますのでそれを紹介します。

おなじ都城市の庄内町に、チョウコウ院跡という史跡があり、ここに、北郷家(都城島津家)2代、4代、5代、7代の墓石があります。あまり目立たない場所にありますが、JAの倉庫のすぐ裏手です。

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チョウコウは釣という字に王ヘンに黄と書きますが、このブログではその字が使用できませんので、詳細は上右の解説板を見てください。また、この近くに、本郷家初代の資忠(すけただ)の墓所がある山久院跡という史跡もあります。

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この史跡には4人の歴代当主のほか、10代当主の息子・相久(すけひさ)の墓石もあります。相久は父である北郷時久(ほんごうときひさ)に疑いをかけられ、ここ庄内で自刃したそうです。その相久をまつるのが市内都島町にある兼喜神社です。

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これが兼喜神社です。市街を一望する見晴らしのよい小高い丘の中腹に建っていて、県の有形文化財に指定されています。都城の経済人の有志でつくる都城島津を温ねる(たずねる)会(会長:土持吉之氏)が、定期的にこの神社の清掃をボランティアでおこなっています。

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2008年3月 4日 (火)

都城 島津家墓地

先日、NHKの大河ドラマ「篤姫」で鹿児島県の出水が島津発祥の地であるとの紹介ビデオが流されました。さっそく、それに対して東国原宮崎県知事と長峯都城市長がNHKに反論したことが地元では話題になっています。

3月30日の「篤姫」放送にて、都城が島津発祥の地であることのコメント又はテロップが入ることになったそうです。これも東国原知事効果なのかもしれません。

そもそも、古代律令制の時代、現在の都城地域は島津という地名で呼ばれていました。そして、都城を中心に、日向、大隈、薩摩ににまたがる日本でも有数の荘園があり、島津庄と呼ばれていたのです。薩摩の島津本家の初代となる惟宗忠久は、この島津庄の地頭職に任じられます。そして、この地名をとって島津を名乗りましたが、ほどなくしてこの地を去っていったようです。現在の都城市の郡元町にその居館跡とされる祝吉御所跡が、安久町には堀之内御所跡の石碑が建っています。

片や、出水の方は、戦国の雄として南九州に君臨し、明治維新の立役者ともなり、「篤姫の」舞台である大藩・薩摩藩の地歩を築いたところという意味で、やはり島津発祥の地といえるようです。だから、どちらも発祥の地を名乗る資格があるということなのでしょう。

現在でも都城には都城島津家があります。こちらは本家の分家筋で、もともと北郷(ほんごう)を名乗っていました。1375年に2代北郷義久がこの地に都之城(みやこのしろ)を築き、これが現在の都城の地名のもとになったといわれています。以来、延々と600年以上にわたり、都城の領主としてこの地を治めてきました(1600年前後に数年間だけこの地をはなれたことがあるが)。現在でも28代当主、島津久厚氏が高齢とはいえ健在です。このたび、その居宅である都城島津邸が、都城市によって保存整備されることになったのは、先日このブログに書いたところです。

さて、島津邸の保全は喜ばしいことですが、島津邸以上にわたしが重要な文化財としてたいせつに考えているものが都城にあります。島津墓地です。その名のとおり、都城島津家の先祖累々の墓であり、城跡の南側にある低い丘を利用したかなり広い敷地に無数の石塔・墓標が建っています。その形や大きさ、形式は多彩であり、見ていて飽きることがありません。わたしは、造形的にこの墓地をたかく評価しています。墓地なので狭義の文化財としては法的には難しいのかもしれませんが、その造形、歴史からして本来の意味で1級の文化財であることは疑いのないところです。ちょっと古い写真ですが、以下に紹介しておきます。 

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起伏のある広い敷地に、バラエティに富んだたくさんの石塔が立ち並び、いかにもお殿様らしい格式を感じさせる立派なもの、家来なのか遠縁のものなのか、中くらいのもの、小さなものもたくさんあります。

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上左のものはカニが彫られている。右は千手観音風だが手がいくつか取れている。

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丸に十の字の島津紋章入りの灯篭

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このみごとな彫刻。左のは老松かな?、右は竜が精緻に彫られている。

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右の写真を拡大したもの。内部はくりぬかれ、中にもうひとつの石碑がある二重構造になっている。

ところで、島津邸の購入を決めた都城市は、その整備計画もそこそこに、もう資料館の設計入札を公告しています。あまりに拙速に過ぎるのではないでしょうか。島津邸という当地にとって貴重な文化・歴史資産の整備計画であり、慎重なブランド化戦略を用意してもいいはずです。まして、上物だけそうそうに入札で決定するとは。急を要する事情があるにしろ、これではおざなりものしかできないだろうことを危惧します。まず、叡智をあつめて将来に耐えるしっかりとした整備計画をたてる、あるいは設計コンペにてすぐれ案を募り、その内容を広く市民に公開し、市民を巻き込んでの透明性の高い計画の進め方がベストです。

南九州の風土に適した、都城そして島津にもっともふさわしい施設・整備計画を、この地から新しい文化を発信するくらいの気構えでこの事業にあたって欲しいとおもいます。市の設計公告を見ますと、この入札に参加できるのは、今回の想定規模に匹敵する700㎡以上の、しかも役所の発注する資料館に準ずる施設を設計した実績のある者という条件がついていて、そんなヤツが宮崎県にどれだけいるのか、しかも、わたしのような若くて実績はないが才能のある?建築家は排除するシステムになっています。もともと、都城のアイデンティティにかかわるこの重要な建物の設計を、じゅうぶんな準備時間もないまま、設計料の多寡だけで決定する入札という非文化的な制度を採用することに憤りを覚えますが、この参加条件をみて、ますます落ちこみます。

また、もうひとつの貴重な文化資源である島津墓地の将来にもおもいを寄せて欲しいものです。これだけの墓地を、個人の負担で維持することは、将来的に無理があるような気がします。民間の墓地という性格上、行政が関与できることは限度があるのでしょうが、考えればなにかいい方策があるはずです。

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2008年1月31日 (木)

島津邸と吉松邸・宮崎県

宮崎県の最南端、串間市に吉松邸があります。

以前のこのブログでとりあげたことがありますが、このほど修復・整備が終了し、一般公開されたと聞き、先日このお屋敷を訪問してきましたので再び書いておきます。

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吉松邸は串間市にある貴重な近代和風遺産であり、国の登録文化財に指定されています。もともとは、この地きっての素封家であり、国会議員もつとめたことのある名家のお屋敷ですが、近年、経済環境の変化により、串間市が購入して整備することになったものです。

一昨年から昨年にかけて、調査と修復が終わり、公開のための整備にかかっていました。宮崎県内にのこる、貴重な和風建築であるこの邸宅を、まちづくりに活かしたいという長期的な視野にたち、修復までして保存に尽力し、一般公開にまでこぎつけた串間市に敬意を表します。

さすがに、有数の材木商ということもあり、銘木をふんだんに使用した、豪壮な邸宅です。約200坪の主屋のほか、物置や蔵など複数の別棟からなります。採光と通風、庭との調和をはかるため、典型的な雁行型の平面になっています。だれでも無料で見学できますので、串間に行かれる祭は、ぜひ寄ってみてください。スタッフが丁寧に案内・説明してくれます。

さて、つぎは、やはり宮崎県内にある都城島津家のお屋敷のはなしです。

島津といえば、鹿児島県にある勇猛な武士軍団をおもいうかべることとおもいますが、ここ都城市も旧島津藩の領地内であり、都城は文化的には島津・鹿児島圏内といって言いとおもいます。その都城に650年にわたり領主として存在してきた島津氏のお屋敷があり、都城市では、そのお屋敷の存続をめぐって、ちょっとした話題になっています。

都城は、島津家発祥の地とされており、都城島津家はその直系として、島津藩内でも格別の配慮をたまわる名家でした。近ごろ、NHKのドラマ「篤媛」にて島津藩が露出されていますが、都城もその一員であり、都城はその自治藩として長きにわたり存続していました。

都城を代表する名家であり紳士でもある、現在の当主である島津久厚氏は、すでに齢80才を超えています。大名家の一員とはいえ、近代の税制のもとでは、その家督の維持に心を痛めなければなりません。すでに、今日までその家格と家督を維持している戦国期にさかのぼる名家は稀なものになっています。

久厚氏は、将来のことをおもい、まず氏が代々所有するお宝1万点を市に寄贈することを決めました。その散逸をおそれんがためです。そして、当時の都城市長の岩橋氏は、島津屋敷の購入・保全について合意しました。そうして、都城島津のお宝は市に寄贈され、現在、その歴史的な価値を鑑定する作業に入っています。重要文化財はもちろんのこと、もしかしたら国宝に指定されるかもという貴重な古文書群や工芸美術品のようです。

時は流れて市長は若い長峯氏に代わりました。氏は財政改革を最重点に掲げていましたので、そのせいもあるのでしょうが、都城市民会館やこの島津邸の保存には消極的でした。経済効率を優先するがあまり、貴重な文化資産を失うことは、まちづくりや文化的損失をかんげると、オウンゴ-ルに等しい行為だと五十嵐太郎氏が述べていますが、とくに、地方にとっては深刻かつ重要なな問題です。

結果的に、両者とも存続の方向が示されたことはなによりでしたが、都城市民会館は南九州大学への無償貸与という落としどころに落ちついたのはともかく、島津邸に関してはまだ波乱ぶくみのようです。1月30日の臨時市議会は、市が示した島津邸の購入整備計画案を審議した結果、20対20の賛否同数となり、議長決定で可決となったのです。

たしかに、総額15億円もの巨大なプロジェクトに仕立てた市のプランは、拙速にすぎるような気がします。おそらく、議員さんもそのへんに疑問を感じたのでしょう。とりあえず屋敷だけを購入・保全し、今後のことはゆっくり考えるということにしておけば、多数の賛同が得られたものとおもいますし、わたしもそれがいいとおもっていました。とくに、資料館の建設にあたっては慎重に考えて欲しいとおもいます。映像やバ-チャル的な手法を駆使した最新型の展示方法を取り入れた展示会社主導の計画になることをおそれます。がらんとした閑古鳥のなく資料館に、更新されずに同じ映像だけが流されているものをよく見かけるからです。島津は気風として質実剛健さを尊ぶところです。できれば、予定されている資料館も、その気風に沿ったものを望みます。これみよがしの演出は無用です。

貴重な文化財であることは承知ですので、きちんとした正確な解説を付して、いい物を正しく見せる資料館以上のものは望みません。本物だけをきちんと置いておけば、あとから勝手に人はやってくることがあります。宮崎県庁が県内有数の観光スポットになるなんて、だれも考えもしませんでした。観光スポットをつくることは、巨大資本を投ずるものは別として、一朝一夕にできるものではありません。ただ、本物やいい物があれば、そのときの状況によって、にわかに脚光を浴びたりすることはあります。資料館の位置付けは、まずは地元の人たちのために、郷土の誇る文化財を正しく伝えることでいいとおもいます。

昨年、市長と面会し、市民会館のこと、島津邸のことについて意見をかわしたことがありました。そのときはまだ、両者とも存続の方向は示されていない時期です。そのとき、島津邸に関して市長は、なによりも島津氏の名誉が重要であり、島津邸の購入により、氏の立場が悪くなっていけないということを言っていました。山形県の上杉鷹山記念館を引き合いに出し、かの地では資料館の建設により、上杉氏の評判が悪くなったとのことです。巨額な建設費用とその後の状況が理由のようです。(ちなみに、鷹山氏は高鍋の秋月藩の出身であり、吉松邸のある串間市もかつては秋月藩の領地でした。)

今回、市が臨時議会を開催してまで示したその案は、そのときに市長が危惧した方向を向いているような気がしないでもありません。ただ、市側にも事情があって、島津家から寄贈されたお宝の鑑定がすみ、めでたく重要文化財ということになれば、その指定や修復は展示公開が前提となること、今回の整備計画は多くを国からの補助金に依存しており、時期をのがせば市の自己負担金額が莫大なものになることがあるようです。

都城市は、現在、重要文化財に指定されている甲冑を一点所有していますが、指定されたとたん、公開できないというジレンマに陥りました。法律で文化財の保存・公開についての基準が厳しく規定されているからです。展示するには、それに相応する施設が必要なのだそうです。島津家の財宝は重文指定が確実視されていますし、市もそれを望んでいます。そして、それを修復し、広く市民に公開となると、施設の問題が出てくるわけです。これはしかたがありませんので、つくらないわけにはいかないのでしょう。

ただ、補助金をあてにするために急いだというところは引っかかります。他人の財布をあてにすると、ろくなことがないからです。身の丈に合った資料館を自分の金でつくるのが理想です。全国いたるところに、必要以上に豪華で華美な類似の施設があふれ、その維持に窮している実情がありますし、自分で金を払うからこそ、そのあり方を真剣に考えるからです。

なにはともあれ、島津邸の保全が決したことは嬉しいことです。この問題が昨年たちあがったとき、市民会館はダメでも島津邸は残るだろうとわたしは考えていました。島津邸は市内の有力者の関心をあつめていましたし、これ以上のブランドは当地にはありません。まさか、議会でこんなに紛糾する事態になるとは、おもいもよらなかったことです。

ただ、資料館はじめ屋敷の整備にあたっては、市民のための施設を第一義としたものとなることを望みます。まだこれから詳細を詰めるのでしょうから、じゅうぶん間に合うはずです。また、資料館の設計は公開コンペで決めて欲しいものです。現状の入札による設計者の選定方式では、ろくなものができません。全国の建築家の叡智をあつめ、40年前、菊竹氏がのこしてくれた都城市民会館に匹敵する輝きをもつ建物が、この地にできればこんなにいいことはありません。

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2007年4月24日 (火)

都城島津を温ねる会と、島津邸のこと

宮崎県は都城に、「都城島津を温ねる(たずねる)会」(会長:土持吉之さん)という団体があります。古い歴史をもつ都城島津家の28代目の当主であり、当地の発展・歴史に欠かすことのできない巨人でもある島津久厚さんの功績と人柄に惚れ、なにかできることがあったらお役にたちたいという有志の集まりです。

先日、その会長の土持さんと美術家の又木さんの企画で、都城島津家を訪問させていただきました。しかも、島津さんご夫婦の案内でという、幸運なものでした。わたしとしては、昨年の6月以来の2度目の訪問であり、このブログにもそのときのことを記しています。

発端は、現在都城に帰省中の又木さん(本拠地はスペイン)が、昨年、島津さんが受賞した都城名誉市民章のデザインを担当したことでした。又木さんは現在一時帰国しており、郷里の都城に滞在しています。その又木さんが先日東京に行ったおり、東京の島津邸に連絡を取り、名誉章の実物を拝見したいという(又木さんはスペインにいるので実物を見ていなかった)希望を伝えたことだったようです。

東京で島津さんと面会した又木さんは、その名誉章を都城のお屋敷で拝見する約束を得ますが、同時に、都城島津邸の存続が、現在微妙な情勢にあることも知らされました。先にこのブログでも紹介しましたが、10年ほど前の、まだ岩橋市長だった当時、都城市は島津さんのお屋敷を買い取る約束をしました。その見返りといっては語弊があるかもしれませんが、当家の所有する美術品や古い文献・記録資料など約一万点のお宝を市に寄贈することになり、こちらは2年ほど前に履行されました。現在、そのお宝は、重要文化財の指定を視野に入れ、市が調査・整理中です。

ところが、現在の長峯市長は、市が果たすはずであったお屋敷購入の約束を、まだj準備不足として履行しようとしていません。うがった観測かもしれませんが、島津家がしびれを切らして他に売却するのを待っているのであり、そうすれば市が約束を反故にしたという批判がかわせるという、稚拙なのか高等なのかよくわからない、それが本当ならとてもズルイ作戦だと言う人もいます。

さて、都城島津を温ねる会の登場です。東京で島津さんと面会した又木さんは、この会のことをご夫妻との会話の中で知りました。「温ねる」と書いて「たずねる」と呼ぶのは、おそらく論語の「温故知新」(一般解では「古きをたずねて新しきを知る」と訳す)から来ているのでしょうが、都城島津家の古く長い歴史と、鹿児島の島津本家の陰に隠れて、あまり知られてはいないが、日本史の画期に活躍した都城島津家の面々と、今日の都城・宮崎・ひいては日本の発展に貢献した都城島津家の功績を顕彰・検証し、都城島津家を貴重な郷土の遺産として維持・活用したいという目的をもつ市民団体です。

「・・温ねる会」は現在、会員100人ほどを数えています。いずれも、都城ロ-タリ-クラブの会員を中心とする(島津さんは宮崎県のロ-タリ-クラブの祖といえる人物であり、現在でも現役で50年在籍かつ重責を担っている、日本でも有数のロ-タリアンです)当地の重鎮ばかりであり、じつは、長峯市長自身もこの「・・温ねる会」の会員です。この会は、都城市が10年前の約束を果たし、島津家の屋敷をこれからも市の貴重な財産として存続・整備するよう各方面に働きかけていくそうです。

わたしも都城島津家が民間に渡り、商用地あるいは住宅地として現在の姿を壊すかたちで再開発されることを望んでいません。都城は島津家発祥の地であることをうたっています。律令体制が成熟してきた平安時代の初期、すでに現在の都城地方が島津という名前で呼ばれていたと記録にもあるようです。やがて、この地を治めることになった現在の島津家の祖が、地名をとって「島津」を名乗りました。その本家は鹿児島に移住し、日本史に重大な数々の足跡を残すことになります。都城島津家は宗家の分家筋としてこの地域を支藩として自治してきました。戦国期から連綿と続く武家の昭和期の住宅として、あるいは、当地にとって珍しい優れた近代和風建築遺構として、この都城島津家屋敷は高い資料的価値と文化的価値を有しています。古くていいものはたいせつに扱う。残すべきものは残す。当然のことです。財政逼迫の言い訳は、万策尽き、矢折れ力尽きてから言うべきです。

前置きが長くなりました。今回の島津邸の写真をご覧ください。

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島津夫妻と又木さん           又木さんデザインの名誉市民章         

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かつて天皇がくつろいだことのある部屋にて  大野重幸氏デザインの和室欄間

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お屋敷と庭園         「・・温ねる会」が定期的に清掃している市内の兼喜神社

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2007年3月20日 (火)

山之口の島津寒天工場跡

都城から宮崎へ269号線を行く途中に、山之口町がある。人形浄瑠璃の伝承や島津藩特有の麓地区のようすがよく残っているおだやかな雰囲気のまちだ。

このまちを通るたびに気になっていたのだが、「島津寒天工場跡」という看板が国道沿いに立っている。ちょっと歴史好きなわたしとしては、「島津」と聞いて興味がそそられるのであった。以前、2回ほど通り掛かりに行ってみようという気になり、看板の方向に車を向けたことがあるのだが、さっぱりわからなかった。

日本の道路看板は最低だとわたしはつねづね感じている。見知らぬ土地に行き、看板をたよりに車を進めてひどい目にあったことが何度もある。

道を知らない人のために看板はあるはずだが、新しい道ができても古い看板がそのまま残っていて、新しい道なら半分で行けることを目的地に着いてから知らされたり、どっちに行けばいいのかわからなくなったり、途中でまったく表示がなくなっていたり、見知らぬ土地を地図と看板を頼りに建築行脚することがままあるわたしは、日本の道路看板は非常に不親切なものだと感じている。

それはさておき、今回も途中でわからなくなったが、地元の人がいたので道を尋ね、なんとか、数年越しの目的を達することができた。

山之口の麓地区から北へ2キロメ-トルほど行くと、永野という集落がある。そこにこの寒天工場はあった。想像していたよりグッドなものだった。

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なんでも、幕末のころ、藩財政に困窮していた島津藩がつくったものらしい。この地が選ばれたのは、寒天の製造に適した自然環境であることと、幕府の目を逃れるためであるとある。なぜ寒天が当時、特産物だったのか、ロシアや中国に密輸されたのかは書いてないのでわからないが、幕末に最新式の製鉄所や造船所などを有し、有数の武力で明治維新の立役者となった島津藩にはリッチなイメ-ジがあったが、財政改革のために山之口で寒天をつくっていとは。これだから歴史はおもしろい。最盛期にはここで100人以上の人たちがはたらいていたそうである。

原料のテングサを煮る石組のカマドが数基並んでいて、掘り下げた焚口が現在も良好なかたちで残っている。いい史跡である。それを覆う大小ふたつの萱葺きの上屋がかかっているのだが、おそらく、これはあたらしいものだとおもう。おそらく、地元の人たちが屋根の手入れなどをしているのだろうし、工場跡の内部も定期的に清掃したりしてくれているのだろうと推測する。こうして、地元の人たちの手で古いものがたいせつに残されていく。こうして残されたものが、後世、ますます高く評価されていきます。そうやって法隆寺も東大寺も現在に受け継がれてきました。

かたや、都城唯一といっていい貴重な近代建築である都城市民会館はどうなるのでしょう。解体に83%が賛成?どうも信じられませんが。

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2007年2月21日 (水)

都城の島津邸はどうなるのか

先日、串間の建築家・河野さんが来訪し、串間市の吉松邸の改修が終わり、4月から一般に公開するとのことで、その状況を聞いたり、改修工事後の写真などを見せてもらった。

吉松邸は串間きっての名家で豪商でもあったが、近年に没落し、その広大な邸宅と敷地は串間市の所有となった。大正10年の吉松家最盛期の築であり、延べ200坪を超す豪勢な和風邸宅だ。市はさっそく登録文化財に申請し、指定されている。串間市役所に隣接して建つ地の利を活かして、中心街の活性化と市民グル-プの交流の拠点として活用するよう、市は4000万円をかけて改修することにしたのである。人口2万人足らずの小さなまちの大英断といっていいだろう。

今後はNPO法人の手で運営され、串間市の新たなまちづくりの核として再生されることになる。河野さんは今後の運営についてもいろいろ構想を練っているようで、忙しそうである。

かたや、合併で人口17万人となった都城市に島津邸がある。吉松邸は豪商の住宅であるが、こちらは殿様の邸宅である。5000坪の林も池もある広大な敷地の中心に、昭和10年につくられた書院造りの母屋が建つ。吉松邸は延べ床面積で200坪を超す豪邸だが、こちらは武家の邸宅であるためか、90坪ほどである。

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門から続くアプロ-チ            母屋 玄関廻り

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 道路脇の石蔵                 天皇宿泊の記念碑

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  母屋の縁側(廊下)         奥の和室の欄間(原画は画家:大野重幸氏のもの)

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天皇宿泊時に居間として使用した部屋   天皇の寝室(調度類はそのまま)

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天皇専用の洗面所             敷地南西の蔵(明治期のもの)

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 この2階右の部屋が天皇の寝室    母屋の隣にある祭祀場

もともと島津家の邸宅がここに昔からあったのではない。現在の市役所・明道小学校の付近が旧領主館の敷地であり、この領主館が私邸であり公邸だった。現在の地に移転したのは、明治維新により領主館を返上したためであるようだ。

昭和48年に昭和天皇・皇后が行幸し、ここに宿泊したことがある。その当時、当地に天皇が宿泊する機会は二度とないからという地元の要請で、当主の久厚氏はこれを承諾し、莫大な費用をかけて邸宅を改築したらしい。なにしろ、行幸ともなれば、たくさんの随員を伴ってくるのであるから、おそらくこの屋敷だけでは手狭だっただろうし、それなりの格式も必要だし、細心の注意を払って、改修・改築にあたっただろうと推測する。

現当主の久厚氏は昨年、新制都城市の第一号の名誉市民に推挙され、盛大な祝賀会が催された。氏は林業と茶園を経営する事業家でもあるが、学習院の院長など中央や地元で数々の要職を歴任し、こんにちの社会の発展に貢献した、たぐい稀な名士でもある。また、数年前、氏は都城市に総数一万点という当家に代々伝わるお宝や資料などを寄贈している。明治維新と太平洋戦争という二度の大荒波をくぐりぬけ、その家督と家挌を維持している大名家は稀である。ほとんどが維新期の変革と戦後の改革の混乱、莫大な税金などで散逸しているのである。厳密には都城島津家は大名家ではないが、約5万石の私藩(支藩)の当主として、大名に準ずる地位を有していた。その格式ある家の歴代の財宝を市は譲り受けたのであるが、現在専門家の手で調査・整理中であり、数百年連綿と続いた武家の貴重な資料として、重要文化財の指定を視野に入れていると聞いている。そうなれば、文化財の不毛の地といっていいこの地域にとって朗報である。

ところで、このお屋敷のことが問題になりそうだ。なんでも、お宝を市に寄贈するにあたって、この屋敷を市が購入することで話がまとまっていたらしい。元の岩橋市長からもそんな話を聞いたことがある。ところが、さいきん聞いた話では、財政難の折、その話はなかったことにしてくれ、と市が申し出てているとのことである。もちろん、一万点のお宝は返さない前提だろう。

島津氏の希望は、この地を切り売りすることなく、一体として保存し、できれば島津資料館的なお宝の展示保管施設を期待してのことだろう。市も島津発祥の地をうたい文句にしているのであり、願ってもない話であったのだろうが、いつのまにか状況が変わっていたようた。噂では、市と島津氏のあいだで覚書のようなものがあり、法的に争うことは可能とのことだが、争いを好まない氏の性格がそれを断念し、今後は民間のデベロッパーなどが譲渡先として検討されることになるという。天皇が宿泊した邸宅を取り壊しての開発ということになると、地元の事業家にはおそれおおくて手が出せないだろうという観測もあるようだ。

島津氏の存在は、都城を象徴するものだ。この地が民間に売却され、大規模な商業施設やマンション、駐車場などに変更されることなく、公園あるいは文化・交流施設として残されたら、都城のまちづくりのためにもいいことだとおもうのだが。これからどうなるのだろう。

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2006年6月22日 (木)

都城島津家 訪問

 島津家といえば、戦国の強力大名であり九州の雄である。明治維新の原動力であり、数多くの英傑を輩出している。その島津家の発祥の地とされる宮崎県の都城市に、都城島津家という殿様の家系がある。殿様とはいっても、薩摩藩内の支藩のひとつであり、一般的にいう大名というわけではない。しかし、石高 五万石程度を誇り、れっきとした小、中大名に匹敵する権勢を誇っていたたのである。

 今回、縁があってその島津家当主の屋敷の一部を見学する機会を得た。べつに、殿様の家系をあがめたり、豪華さをいいとおもっているわけではないが、わたしも建築家であるので、上質の空間や雰囲気には強い関心があり、好奇心もたくましいのである。近代和風の粋を凝らした邸宅ならよだれが出るほど好きだ。また、昭和48年にここには天皇・皇后両陛下が宿泊した由緒もある。格式でいえば、南九州有数のものであろう。かねてから見学を望んでいたのであった。

 ちなみに、この島津家の現当主である久厚氏は、たぐいまれな人格高潔の士であり、数々の要職を歴任する、日本でも相当なクラスに位置する巨人のひとりであることだけは申し添えておこう。

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島津邸 玄関前のアプロ-チ

さすがに風格がある






 この本宅は昭和10年の陸軍の大演習の際に建設されたそうだ。そういえば、3年ほど前に訪れた都城市高城町の豪商、後藤家本家も、そんな来歴だったような記憶がある。戦前は軍都として聞こえた都城らしいといえばいいだろうか。

 屋敷の総敷地は5000坪ほど。邸宅も庭園もさすがにすばらしいものだった。敷地内には、たくさんの建造物が建っているが、その中でもっともおもしろい来歴をもつのが、道路そばに建つ木造の小屋である。

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 この小屋は慶応年間のものだというから、ざっと140、150年ほど前のものということになる。もともとここにあったのではなく、剣術で名高い江戸の千葉習作道場で修行を積んだ当地のワタナベコウスケだったか(わたしの記憶違いかも)という人物が都城市内に剣道場として建てたものを後年、ここに移築したものだそうだ。とうぜん、外壁や屋根材などは後年の補修がかかっているだろうが、柱梁などの基本構造材は慶応のもののようだ。

 現在は物置小屋のように使われているが、おそらく、古さだけなら市内でも有数のものだろう。よく空襲や台風などを乗り越えてきたものだと感心する。

 そんなこんなで、とてもウンチクに富む楽しい体験をさせてもらった。じつは、わたしは歴史もけっこう好きなのだった。関係者のみなさん、ありがとうございました。

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