« 宮脇檀 旅の手帖 | トップページ | 2011宮崎国際現代彫刻・空港展 »

2011年6月25日 (土)

祝 小笠原諸島 世界遺産

小笠原が世界遺産になった。まずは「おめでとう」である。

わたしは青春時代の一時期、1年ちょっとでしかないが、小笠原の父島に住んだことがある。民宿の兄ちゃんとして。

澄み切った空と海、とくに海はすばらしい。ボートで沖に出る。眼下に透明度の高い緑がかったアクアと色とりどりの魚と海藻、白いサンゴ礁が見える。すぐ手が届きそうだ。でも、そこにあるのは数十メートルの深さのある自然のまんまの海である。

今の時期(ちょっと前かな)はシロアリの多発期であった。街灯に群がるおびただしい羽根ありの群れ。視界は数メートルにまで落ちてしまう。

もともとハワイ・ポリネシア系やアメリカ経由の白人の民族が住み着いていたこともあり、異国的な雰囲気がある。幕末から明治初期にかけて、正式に日本領となってからは日本人も多数移住したが、戦後(太平洋戦争)、戦争目的で追いだされていた住民のうち、海外系の人たちだけがいちはやく復帰を許されたという歴史もある。また、米軍の占領下になっていた時期、ギンネムという繁殖力の高い植物がもたらされ、その後、島のいたるところにそれが繁茂していた。それは今でも優勢なのだろうか。

カタツムリを大きくしたようなマイマイとかなんとかいう貝がやたらといる。絶海の孤島につきヘビもいない。かつて、島民が持ち込んだマムシを逃がした事件があったそうだが、島民総出で探索し、駆除したことがあると聞いた。

ここは魚釣りの天国でもあった。かつては、何を餌にしても魚が食いついていたという。大きなマグロも頻繁に掛かった。島民は木製のアウトリガー付きのカヌーでそれらを釣って食したり、観光に利用していた。

スキューバの天国でもある。海の透明度は先述のように世界屈指である。魚の量と種類も豊富だ。サメやイルカもどこにでもいる。

「君たちパパイヤ、マンゴーだね」という歌があった。小笠原のための歌でもある。パパイヤは栽培が簡単であり、庭先に植えておけば手間いらずで毎年鈴なりに収穫できる。パパイヤの青い実を大根おろし(細切り器)でこすれば、刺身のつま(大根の代用)となる。島民は黄色くなるのをまって果物として食しない。それほどおいしいものではないからだろうし、家庭菜園の延長で刺身のつまとして食する方が功利的な利用法であるように考えていた。

静かな島が、一年の一時期は観光客で大賑わいする。正月、ゴールデン、夏休みである。このときばかりは、若い女性が(男もいるが)大挙押し寄せる。それをめがけて島のおじさんたちが狂喜している様も世界遺産にふさわしい。

崖を降りてしか行けない、あるいはボートでしか行けない(その人たちだけのプライベートとなる)美しい小ビーチがいくつかある。ここに行くことがわたしの目標だった。

小笠原が世界遺産になる数時間前に、わたしがこの島でお世話になった人から、小さな建築物に関して相談があった。もしかしたら仕事をすることになるかもしれない。たぶん、世界遺産に指定が確実視されていたことでの、これからの観光需要を見越しての施設であろう。

この島がこのたびの脚光を浴びることになったのは、その絶海・孤島性による。それまで、人がいなかったということだ。人が住みつきだしてからまだ百年と50年ほどだし、それまでは難破船が漂着する程度であった。空港もないので一週間に一回しかない船しか交通手段はない。しかも料金はそんなに安くないので、ほんとうに行きたい人しか来なかった。とくに父島のすぐ北にある兄島はごくわずかな人しか居住歴がないので、手つかずの自然がほぼ保たれている。

父島が約1000人、母島にたぶん300人程度。これがわたしがいたころの人口であり、兄、妹、嫁、婿など他の島は無人である。現在は知らないが、たぶん似たようなものだろう。

しかし、その当時から、目ざとい企業は、島の土地をかなり広範囲に買っていて、将来の観光需要を想定した投資をしていた。その後、バブルの崩壊もあり、もしかしたら手放したかもしれないが、本土の一等地に比して、そんなに高い単価ではないだろうから、意外と今でもそのまま保持しているのかもしれない。

世界遺産はめでたいが、島の自然とユニーク性が失われることを危惧せずにはいられない。自然遺産であるので、これまで懸案として引きずっていた空港の建設はむしろ難しくなったのかもしれないが、日本人は世界遺産が好きである。おそらく、多数のメディアが押し寄せた後、たくさんの観光客がやってくるだろう。少なくとも自然に関しては一定の配慮がなされるだろうが、それにしても限度があるだろう。また、どこにでも見かけるコンビニやファストフードが林立しているようでは興ざめだ。

島には気象庁、自衛隊、東京都の支庁、もちろん学校も村役場も、などがあった。それらに共通して公務員らしからぬ、のんびりほんわりした雰囲気があり、沖縄の人たちのおおらかさをわたしは愛するが、それ以上のいい意味で弛緩した人間らしさがこの島にはあったように記憶する。その気風も失くして欲しくない。でも人が押し寄せるようになったら、せちがらい、洗練されたかわりに窮屈な生活になってしまうのだろうか。それが惜しい。

|

« 宮脇檀 旅の手帖 | トップページ | 2011宮崎国際現代彫刻・空港展 »

コメント

私は母島にいました。いい記憶です。

投稿: ? | 2011年7月 5日 (火) 20時20分

この記事へのコメントは終了しました。

« 宮脇檀 旅の手帖 | トップページ | 2011宮崎国際現代彫刻・空港展 »