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2009年8月14日 (金)

ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」

2009081331492 高瀬 毅 著、2009.7月 平凡社刊、1600円+税

ことしもお盆の入りを迎えた。この時期、建設現場は小休止となる。

都城商業高校が28年ぶりの甲子園で1回戦を突破した。そういえば、28年前は、東京で商業高校出身の友人たちと数人で一緒に応援していた。そのときはたしかベスト8という快進撃に友人もわたしも大喜びだったが、今日の試合は、そのときのような勢いを感じる内容だった。その友人が1年ちょっと前に亡くなったのが惜しまれる。生きていたらどんなにか喜んだことだろう。もしかしたら一緒に祝杯をあげていたかもしれない。

さて、この時期は原爆ウイークでもある。先日、図書館でタイムリーな本を見かけて借りてきた。はじめて読む著者である。

計画どおりのヒロシマと異なり、ナガサキへの原爆投下は、かなり偶発的なものだったという。まず、長崎は当初の目標ではなかった。テニアンを出発した爆撃機「ボックスカー」は、小倉を目標として離陸する。ところが、小倉に到着したものの、前日の空爆による火災の噴煙(雲が原因という資料もあるらしい)で目標物を視認できない。数度のトライのあと、機長は長崎へ機首を急旋回させることになる。

離陸時からトラブル続きだった爆撃機にはテニアンまで帰還する燃料はない。長崎に原爆を落とし、沖縄に緊急着陸することになる。ただ、不幸なことに目標物とされた三菱の軍需工場はなんとか視認できたらしい。こうして午前11時2分、長崎の浦上地区の上空で原爆が炸裂する。

表紙の写真は爆心地にほど近い浦上天主堂の廃墟である。この浦上地区が隠れキリシタン時代から続く日本でも有数のキリスト教徒の住む地区だったのは歴史の皮肉だろうか。凄惨な受難の歴史を持つ浦上の人々に、神はふたたび苛烈な試練を与える。しかもキリスト教徒の国によるそれを。

この破壊された天主堂は、30年の歳月をかけて1925年に完成した、当時東洋一との異名をとる壮大かつ秀麗な教会堂だった。高さ25メートルの双塔の鐘楼をもち、キリシタンの聖地にふさわしい威容を誇っていたのである。甚大な労力と資金を費やしてようやく完成したものの、わずか20年で破壊されるとは、つくづく受難の地であると嘆かずにはいられないが、近くに軍需工場があったことが不運であった。

被爆から13年間、浦上天主堂は廃墟の姿で放置される。長崎市では広島の原爆ドームに匹敵する歴史遺産として保存の方向性を決めていたそうでもある。しかし、田川市長の代になって解体が決まり、1958年に解体される。そして現在の浦上天主堂が跡地に再建される。

もし、天主堂の廃墟が当初の方針どおり残されていたなら、広島とおなじく、世界遺産に指定されていたことだろう。本書に収録された写真で見ると、かろうじて残されたレンガ壁に寄り添うように石彫の聖人やマリア象が立ち、周囲は瓦礫で埋め尽くされたさまは、原爆の証人としてこれ以上のものはないという遺構となっている。

なぜこれが保存されずに壊されねばならなかったのかという分析を本書はしているのであるが、そこには、アメリカの影響があったようである。詳細は本書を読んで欲しいが、著者は断定的にキリスト教施設の原爆遺跡をアメリカが望まずに解体させたと言っているのではない。解体時期の直前に、田川長崎市長がアメリカに招待され、長期間滞在し歓待する。あるいは、教会の責任者である西川司教がやはり前後してアメリカを長期間訪問し、かなりの寄付金を集めたことなどを記しているが、当事者である教会側としては、かつてキリシタン弾圧の象徴として踏み絵が行なわれた庄屋跡に建設されたかつての天主堂の跡地に、ふたたび教会を再建することが宗教上の重要な方向性だったのだろうとも言っているので、その決定を批判しているのでもない。

ただ、アメリカという国のハードとソフトを兼ね備えた重厚な外交政策の展開には恐れ入る。外交とは本来こういうものなのだろう。こうして、その戦略が功を奏したのか、日本人は空襲と原爆とでアメリカによって国土を破壊されつくしても、アメリカ好きになっているのである。

もうひとつ、ナガサキという町の二重性も指摘していて、時間をかけて形成された根深いキリシタンへの差別や蔑視が、この遺跡が市民共有の歴史資産とはならなかった要因のひとつとして考えられるという。たしかに人間は罪深いわがままな生き物だが、原爆の災禍のすさまじさ、人類に対するその罪の普遍性は訴え続けるしかない。

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