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2009年6月 2日 (火)

霧84号

2009052027712 「霧84号」 ¥1000、表紙の絵は児玉隆さん。

都城市に「霧之会}という文学の愛好者のグループがあり、年に2回機関誌を発行しているという。

ことしの3月にその創刊40周年を記念する84号が発刊され、特集号として都城市の助成を受け、いつもよりボリュームを大きく、部数も多く発行することになった。上の写真がいつもよりちょっとゴ-ジャスにできあがった冊子の表紙だ。

たまたま、知りあいに「霧」の同人がいて、わたしにも寄稿を求められた。できれば建築者として市民会館のことを、という要望だ。

保存運動がみのり、会館がぶじに残されてからすでに1年半が経過しようとしている。考えてみれば、保存運動中はずいぶんたくさんの文章を書いた。保存を訴える文章、協力を依頼する文書、展覧会用の文書、シンポジウムの文書などなど、これまでの人生でもっともたくさんの文章を書いた1年間だった。運動が終息し、また平穏な設計屋さんとしての日常に戻ると、文章なんて書くのはこのブログくらいのものであり、あとは確認申請の書類とか業務に必要な書類くらいだ。ふりかえると、あの熱狂の日々がなつかしく不思議ではあるが、うらやましくはない。

市民会館について、もう一度その当時をふりかえりながら、あらためて文章としてまとめておくのも悪くはないなとおもい、書くことを引き受けた。さいきん長い(精密な?)文章から遠ざかっているので、一から書くのもしんどそうだ。楽しちゃおうということで、パソコンにストックしてあった過去の文章を抜粋してまとめようとした。しかし、これが失敗で、よけいに時間がかかったような気がする。一から書いた方がよほどスムーズだったにちがいない。

そんなわけで、以下に「霧」に掲載した文章を収録します。ちょっと長いですので、読み飛ばしてくださってかまいません。きっと、ブログのネタに困っての所業に違いありません。

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『文化の力 -都城市民会館と南九州-』

 「文化で飯が食えるか」などと、芸術や文化のことを軽んじるむきも、ままありますが、わたしたちは「文化でしか飯が食えない」時代と社会に生きています。付加価値とはすべて文化のことであり、これがないと、言われるがまま、ただ安いものを造ることにあまんじるしかありません。それはすでに日本では通用しないことであり、その生産拠点はとっくに海外へ移行しています。わたしたちは文化で飯を食うほかありません。

都会と比較すると、地方は文化的にはハンデを負っています。文化力の必要とされる仕事は中央で行ない、地方はその下請けとして安い労働力だけを提供する、そんな構図もできあがっています。そこから脱却し、より高いレベルのおもしろい仕事をするためには文化は欠かせません。そのためには、文化をたいせつに扱うしかありません。高い評価を受けている文化財をたいせつにする必要があることは言うまでもないことです。

 都城は日本一の畜産基地にまで成長しました。農家のたゆまない努力と行政のバックアップがあってのことです。しかし、ブランド力はまだまだ不足しています。福岡市は莫大な経費を使ってオリンピックの誘致に手を挙げました。フクカオを世界にアピ-ルし、ブランド力をもたせるためです。東国原知事の登場でミヤザキのブランド力はかなり上昇しましたが、まだ海外までにはその力は及んでいません。

ところが、都城にはすでに市民会館があります。イタリアの美術の教科書に載り、フランスの近代建築の展覧会に日本代表として出品されています。会館が残されたことで、今後もそういう機会があるでしょう。そして、そのたびにMIYAKONOJOの名を世界に知らしめてくれます。

 

 古い歴史をもつ日本には、たくさんの文化財が残され、そのなかでとくに優れたものが国宝に指定されたいせつに保存されています。現在、全国にその数は千点あまりです。では、そのなかの何点が九州にあるかというと、19点でしかなく、さらに南九州にかぎると、わずかに照国神社の刀剣1件しかありません。つい数年前、阿蘇の神社が熊本県から初の指定となりましたが、それまでは熊本県も国宝の空白区でした。宮崎県串間市にある吉松邸が、先ごろ重要文化財に答申されるという栄誉を受けましたが、残念ながら宮崎県は国宝の数少ない空白区であるばかりでなく、重要文化財の数でも全国で最下位です。

 このことは、宮崎県及び南九州地方が、歴史的に地理上の辺境にあることと、台風などの自然条件も含めて、この地域が経済的に貧しかったことを端的に示しています。

 そんななかにあって、この地に市民会館があることを、わたしは奇跡のように感じています。すでに、都城市民会館は南九州の至宝といっていい世界に通用する近代建築物であり、文化財です。しかも40年前、市がなけなしの金を出し、当時でも超ロ-コストで建てられた建築です。まだ築40年ですので、築50年を要する公的な文化財のル-トにはのりませんが、このままたいせつに使いつづければ、近い将来かならず正式な文化財として認定されます。すでに広島のふたつの戦後の建築物が重要文化財に指定されています。市民会館より新しいシドニ-のオペラハウスはすでに世界遺産ですし、他にも世界の近代建築のいくつかがその候補に名を連ねています。わたしは、都城市民会館がそれらに匹敵する高い文化的価値を備えていると考えていますし、近年、戦後の近代建築を文化財として積極的に指定していこうという世界的な動きは、日本でも顕著になりつつあります。

すぐれた文化財である市民会館がこの地にあることは、都城市民のみならず宮崎県民にとっても誇りであり、その直接的、間接的あるいは精神的な恩恵ははかりしれません。これといった文化財や観光資源に乏しい当地にあって、市民会館の存在は重要な文化・観光資源になる可能性を感じさせてくれます。

 すでに、これまでにもたくさんのメディアに取り上げられ、全国からたくさんの見学者をひきつけています。存続が決まってからも全国紙や雑誌などに都城市民会館が複数回取り上げられています。このことだけでも、都城のピ-ア-ル効果と経済効果はかなりの金額に換算できるはずです。

 経済効果以上に、もっともたいせつなことは、都城市民ひとり一人に、誇りと自信が植え付けられることです。「オレのまちには何もない」地方の若者はみな、ひとしくこんな思いを抱いています。 人間はプライド・誇りがないと人として成り立ちません。小さいものかもしれませんが、17万人市民に等しく誇りを植え付けてくれるもののひとつが市民会館です。かつては、高校野球がそんな役割を果たしてくれていたの時期もありました。もちろん、市民会館以外にも都城の誇るべきものは多々あるでしょうが、それらは一朝一夕にできるものではなく、悠久の自然と、累々たる人びとの努力の積み重ねによって築かれます。

 また、市民会館のように、その地域のシンボル性の高い建築物があることで、郷土への愛着と市民の一体感が得られるということもあります。これも数字には換算できませんが、とてもたいせつなことです。

保存運動をしていた一時期、会館を保存するということは「市民会館税をひと世帯に千円づつ徴収することですよ」という論法を聞いたことがありますが、これはわたしにはタチの悪い恫喝に聞こえました。それなら「新文化ホ-ル税をことしから五千円づつ取ることにしました」とは、なぜいわないのでしょうか。わたしたちは、年間600億円あるいは1000億円の総予算の使いみちを市に委任しています。必要なところに予算をあてる、その使い方の問題でしょう。

かつて、都城市民会館のとなりに、須田記念館というレトロな建造物があり、市の公会堂として使用されていました。それが、市民会館の建設により、その役割が終わり不要とされ解体されました。わたしは、市民会館と須田記念館が並び立つ当時の写真をみて、都城市は貴重な建築物と文化的で厚みのある景観をなくしたことを惜しみます。しかし、市民会館の存続が決まったことで、今後もあの異様な姿がこの都城の中心にありつづけることをうれしくおもい、これから生まれてくる子どもたちに、その姿をナマで見せられることに喜びを感じます。

 建築家で東京大学教授の内藤廣氏(日向駅舎の設計者)が、都城市民会館についてこんなコメントを書いています。「この建物に初めて遭遇した人は、だれでもしばし言葉を失う。そして次の瞬間、どうしたらこんな建物を思いつき、実現させる遺志を持ちうるのか、と思うに違いない。存在感の希薄な町並みの中に、黒々とした鉄骨のフレ―ムが偉容を放つ」(INAX REPORT No.134 1998年)

 市民会館を表現するのに、これほど適切な文章はありません。日本全国どこでも画一的で、ほこりをかぶり薄汚れた地方の町並みにあって、唯一この町の存在を寡黙に主張しているのが市民会館です。

 わたしの住んでいる市内高台の鷹尾地区から、坂を降りて市街へと向かう途中、市街地がパッと視界に飛びこんできて、その中央にこの黒いカブトムシ状の巨大な物体を認識します。わたしが都城という場所を明確に意識するのはこのときです。

ヒラカワヤスミ(建築家)

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