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2008年6月10日 (火)

浮世絵考

わたしは建築家を名乗っていますので、美術や芸術にも関心があります。ひとを感動させるもの、時代を象徴するもの、美しいもの、建築にも通じるいくつかの共通項がそれらにはあります。

あいかわらずひまな事務所につき、時間はありますので、さいきん、図書館で借りてきて読んだ2冊の浮世絵に関する近刊を紹介したいとおもいます。

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わたしは、浮世絵のファンでもあり、このことは、建築家として美術に関心をはらう以前にさかのぼります。たしか、永谷園のお茶漬けについていた広重の東海道53次をコレクションしていた記憶がありますので、そのころから気になっていたのだとおもいます。そういえば、なぜ永谷園は浮世絵カ-ドを付録に付けるのをやめたのでしょう。たしか、わたしが小学校か中学校のころまではいろんな浮世絵作品がオマケとして付いていたように覚えていますが。

浮世絵界の最大の謎は、永谷園ではなく、なんといっても写楽です。写楽は、当時人気のあった歌舞伎役者を、おもいきりデフォルメして描ききった大首絵といわれる作品で知られていますが、わずか10ヶ月で140点ほどの作品を集中的に世に出したきり忽然と消え、その絵師の正体は謎につつまれています。これまで、たくさんの学者や文化人がその謎解きに挑戦していて、多数の本が出版されています。だいたい、15年おきにそのブ-ムが波状的に起こっていたようであり、わたしもその中の数冊は目を通しています。北斎、歌麿、豊国、はては版元の蔦屋重三郎から十返舎一九、山東京伝、司馬江漢などなど、いろんな人が写楽に擬せられていますが、現在ではその熱も下火になり、「浮世絵類考」という江戸時代の文献に書かれ(補注として)ている阿波藩の能役者・斎藤十郎兵衛だろうという説に落ちつきつつあるようです。わたしの浅はかな知識では、それらのどれが有力であるかは判断がつきません。哲学者の梅原猛氏がおす豊国説には、それは違うだろうという感想を持ちましたが、失敗をおそれず、大胆な仮設を提示してみせるのが梅原氏のすばらしいところですので、その点は評価しています。

右の著作の著者である内田氏は、斎藤説を一貫して唱えています。考えてみれば、もっとも写楽の時代に近い江戸時代に、写楽は八丁堀に住む能役者の斎藤であると記録されているわけであり、信憑性はいちばん高いことになります。ただし、その記録が写楽の活動期(1794-1795)の数十年後に書かれたものであり、写楽作品の全ての版元であった蔦屋重三郎や、当時、蔦屋の食客として手伝いをしていた十返舎一九など写楽と密接なつながりがあり、饒舌でもあったはずの人物が、なにも語らず記録を残していないことも含めて、写楽が能役者の斎藤某であったという確実な証拠がないという状況はあいかわらずであり、これからも写楽の謎は続きます。ただ、斎藤氏に関する研究は進展しているようで、かつて東京の築地にあったが、現在は埼玉県に移転したお寺から、斎藤十郎兵衛の墓(過去帳)が発見されたそうです。それによると、斎藤氏は1762年生まれの1820年没であり、写楽の浮世絵出版時は32、33才ということになります。阿波藩お抱えの能役者であり、八丁堀に住んでいた斎藤なる人物がいたことは確認されました。同時代に役者絵の世界で活躍した豊国(1769-1825)ともほぼ年代が一致する人物ということにもなります。

左側の本は美術評論家・瀬木氏の「瀬議慎一の浮世絵談義」という本で、こちらは写楽だけでなく、菱川師宣にはじまるとされる浮世絵の創世期から錦絵の完成者とされる鈴木晴信をへて、歌麿、北斎と大衆美術として完成されていく過程に登場する絵師や、幕末から明治にかけて、鏑木清方につながる浮世絵の終末期までに及ぶたくさんの絵師を取り上げ、浮世絵というジャンルを日本の社会と美術史のなかにどう位置付けるかを考察する本です。瀬木氏は、かつては酒井抱一を写楽になぞらえようと試みたこともあるようですが、その後、写楽は写楽であるという主張に切替えたそうで、これでは突っ込みようがないのですが、賢明な主張ではあります。本書では斎藤説を有力であるとして斎藤氏と「浮世絵類考」の考証はしていますが、それ以上は踏みこまないようにしています。

一般に、江戸時代の浮世絵師については写楽に限らず情報が乏しいようです。それは、彼らが町絵師という身分の低い立場にあったことと関係があります。狩野派に代表される本絵師は公認の芸術家であり、武家や朝廷の室内を飾りますので、それなりの待遇を受けますし、公的な作者に関する記録も多いわけです。それに対して、浮世絵師は庶民のための芸術家というよりも絵描き職人であり、記録に残されることもまれです。ただし、江戸も後期になってくると、庶民の文化的欲求も向上し、旅行、芝居の人気にともなって出版ニ-ズも高まり、人気絵師にはそれなりの報酬と関心が集まるようになり、記録好きの国民性もあって、いくつかの記録が残されているおかげで、こんにち、かなりの絵師が研究され、ある程度解明されているわけです。また、写楽の解明には、絵の研究と同時に、当時の社会状況の考証も重要であるとおもいます。江戸市民に絶大な人気を博した歌舞伎ですが、その入場料はかなり高かったことを本書により知りました。生の芝居は庶民には縁遠いものだったのであり、それを媒介するものとして役者絵があったのかもしれません。また、幕府は再三にわたって町民の風俗を取り締まり、芝居のみならず出版界や浮世絵師にもその厳しい懲罰が及んでいますし、それをかいくぐって作品を発表もしています。また、絶大な人気を背景に、莫大な出演料が支払われ、大奥の女性とも浮名を流すにいたる歌舞伎役者たちですが、身分的には河原者として扱われ、最下層の立場にあったこと、役者絵を描いた絵師はたくさんいますが、なかにはそれを理由に役者絵を描こうとしなかった絵師もいたらしいこと、絵師も町民から士分出身までさまざまですが、藩侯お抱えの士分である能役者が絵師になりえるのか(今日的にアルバイトできるのか)、上流階級のものである能と、庶民階級の歌舞伎との関係、版元と絵師のつながりや制度などなど、当時の社会を詳しく研究・検証することで、写楽が突然消えたことや、作者の経歴が不明であることなどの手がかりがつかめそうな気がします。

ちなみに、わたしは写楽も好きですが、晴信のユニセックス的な人物描写と渋い洗練された色使い、歌麿の精緻で大胆な美人絵、天才北斎の自由闊達さ、広重のあふるる詩情、国芳から芳年につながる狂気、清方の気品と色気ある女性像、ポルノグラフィの絶品といえるたくさんの春画、それらのすべてを愛します。絵師の才能と職人の驚愕する技術、それらを求め愛したユ-ザ-に脱帽するばかりです。

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さいごに、わたしの浮世絵風?作品をひとつ。これは、都城のある団体から数年前に依頼されてデザインしたハッピです。現代の人間として、スマ-トでおしゃれなモダンな意匠も頭にないではありませんでしたが、ここではおもいきって浮世絵を意識したジャポネ-ズキッチュ路線でいくことにしました。上にそびえるのがご当地の霧島であり、北斎の赤富士ならぬ赤霧島をめざそうとしましたが、同じ名前の焼酎ができたのでやめ、青霧島になりました。竜の下にあるのは関ノ尾の滝です。北斎には滝シリ-ズの名品があり、水流や飛沫の表現が、ある意味で版画に近い製作物である染物での表現に、おおいに参考になりましたし、上空に飛ぶ竜も北斎の肉筆のものをアレンジしたものです。いろんな竜を図像であたりましたが、北斎のものがいちだんと迫力がありました。竜は吉祥な図柄であることと、関ノ尾の滝の竜伝説にちなみますが、水に浮かんでいる1976年というこの団体の創設年が辰年であったことにも起因します。

予算の関係で色の数を抑える必要があり、当初イメ-ジした極彩色の錦絵というわけにはいきませんでしたが、染物屋さんと打ち合わせて、なんとかこの表現でおさめてもらいました。写真はありませんが、この反対側には母智丘の桜の花びらを、黄色地に白抜きでその当時の会員の人数分だけ散らしてあります。もともと、絵はわたしの専門外の仕事であり、はじめてのことで四苦八苦しましたが、いい勉強にはなりました。ただ、こうやって現在眺めていますと、「ちょっとダサイな」という気もしますし、「よくできてるじゃん」という気もします。技術的には、滝の上部の甌穴(おうけつ)部の表現がイマイチのようですし、山と滝のバランスがちょっと悪いような気もしますが、実際に着用したものを見ると、目線が竜のところにきますので、この写真で見るほどではないようです。

この作品の優劣はともかくとして、この作品のつくられた背景には、日本の誇る浮世絵芸術(とくに北斎)と永谷園のお茶漬けがあったことは間違いありません。たとえ、商売のためとはいえ、オマケに付いていた浮世絵カ-ドに惹かれた少年の心が、このハッピの図柄を生んでいます。文化とはそういうものであり、広範囲に影響を及ぼしますので、たいせつにする必要があるわけです。そういうわけで、さいきんは大相撲の懸賞でやたらと永谷園の垂れ幕を見かけますが、浮世絵の方もひとつよろしくと言っておきます。

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