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2007年3月15日 (木)

カナ文字会というのを知っていますか

このブログの数少ない読者のひとりから「公開質問状」が届きました。大胆不敵なその内容は、「なぜあなたの名はカタカナなの?」というものです。

たしかに、わたしは建築家ヒラカワヤスミを名のっています。事務所の名称もヒラカワヤスミ設計所としています。名刺も当初はカタカナだけでヒラカワヤスミと表示していましたが、数年前に「きちんと公式名称も入れなさい」という忠告を受け入れ、現在はカタカナ表示の下に(平川靖三)とカッコ書きで表示するようにしました。

当事務所も創立10年を迎え、これまでに名刺交換の席で、なぜカタカナですかとよく聞かれました。当初はカタカナだけの表示でしたので、けっこう頻繁に聞かれました(といっても、名刺交換の回数が一般のビジネスマンより少ないので、絶対数ではそうたいしたものではありませんが)。現在は漢字表記も入れてますので、そういえば、この公開質問が久しぶりのカタカナ表記への質問のような気がします。

「話せば長くなりますので」、と言って、これまであまり詳しく説明したことがありませんでしたし、生来の口べたにつき、酔っぱらったとき以外はきちんと口頭で説明するのが苦手なわたしですが、せっかくですので、この機会にきちんと質問にこたえておきます。ちょっと長くなります。

現在はヨコミゾマコトという建築家も登場し、建築家でも名をカタカナで表記する人が出てきましたが、10年前、わたしがカタカナで表記し始めたころは、建築家ではそんな例を見かけることはありませんでした。オリジナリティを尊ぶわたしとしては、じつはこれはひそかな自慢です。また、芸能界や文化系の世界では、カタカナはそんなに珍しくなかったのでしょうが、「イルカ」さんのようにあきらかに芸名的なカタカナはたくさんいますが、わたしのように一般的なフルネ-ムを単にカタカナで表記する例はすくなかったようです。そのうち、ポツポツと「リカコ」さんのような表現が登場し、これまで漢字で表現していたところをあえてカタカナでという風潮が一般化してきたようにおもっています。とくに、わたしがそうした理由と一緒ではなく、単にカッコ良さや語感のイメ-ジなどによるものでしょうが、その通底にはわたしと共通する時代的な欲求もあるような気がしています。

さて、本題に入ります。なぜカタカナでわたしが表記しているのかというと、大きく分けてふたつの理由があります。まずひとつめは、人名に込められた意味を排除し、単なる識別記号に置きかえるためです。

わたしは平川(ヒラカワ)とう姓を受けて産まれました。これにはわたしの親の願いはこもっていませんが、靖三(ヤスミ)という名には親の感情・希望がたっぷり込められているはずです。あるい性別占いも入っているかもしれません。また、「三」という漢字には、わたしの親にとって3番目の子どもという意味もあるでしょう。「靖」という字は辞書で引くと、やすらかにする、治まるなどの意味があるようです。おそらく、そのへんが親の願いであり、すこやかにおだやかに成長することを願ってのネ-ミングだと推測します。

ヒラカワという姓だって、元をたどれば平川という地名が先にあり、そこから取ったのか、たまたま平べったいところに流れている川のほとりにわたしの先祖が住んでいたのか、あるいは平山という殿様か平岡というカシラが一字を下さったのか、なにがしかの意味があるはずです。ちっとも「華麗なる一族」ではない平川一族でさえ、平川という名にそれなりの自負や求心力とかいうものが、なにがしかあるわけです。

中国人はひとつひとつの言葉の意味を厳密に区別し、数千、数万という漢字を発明し、駆使してきました。それが日本にもたらされ、さらにこの国であらたに作られたものもあり、膨大な数の漢字がわたしたちのまわりにはあります。それらにはすべて意味があり、それが人名になると親の感情までがそこに封入されます。このことは別に否定することではありません。わたしだって自分の子の名は真剣に考えて決めました。とうぜん、だれだってそうします。親の子をおもう気持ちは普遍的なものですので、これからもそうするでしょう。

ただ、その親の感情・願いに満ちた人名の意味ですが、これは、他人にはどうでもいいことが普通です。親しい間柄では、名を聞いてそれなりに意味を推測したりしますが、銀行の窓口で、あるいは役所で、「ヒラカワさん」と呼ばれるときの「ヒラカワ」には、漢字の持つ意味、親の願いはまったくありません。ただの識別記号としての純粋な「ヒラカワ」にすぎないわけです。もし「ヒラカワ」さんと呼ばれてふたりの人が手を挙げたら、「ヤスミ」さんの方となります。ここにもその名の持つ、やすらかな成長への篤い気持ちはまったく無意味です。とうぜんです。それでいいのです。わたしが安らかな一生を過ごそうが野垂れ死にしようが、電話の向こうの人にはどうでもいいことであり、書類作成に必要な情報が得られればそれでいいわけです。

以上がカタカナで表記するひとつめの理由です。人名漢字の意味を排除し、単なる識別記号に置き換えるという希望からです。では、なぜそうするのかという疑問もあるでしょうから、もうすこし書き加えておきます。それは、身の回りをシンプルにしたいという希望からです。近代の建築家はシンプル性を尊びます。単純明快でわかりやすいプラン、形態。これはひとつの建築の理想郷であり、普遍的な思考にもつながります。しかし、これがおそろしく難しいものであることは、シンプルかつ美しいものが身の回りになかなかないことと同じです。かならず、よけいなものが付いていたり、どこかで妥協したりしています。経済性だけを追求したかにおもえる今日の都市風景が、ちっとも美しくはないように、何も考えない・しないことと、シンプルさとは違います。シンプルは崇高で強く美しいものですが、その実現にはかなりの実力を要します。

ピラミッドは純粋に幾何学的な強くて美しい形といっていいとおもいます。しかし、これをそのまんま建築に採用することは、できそうでなかなかできません。なぜなら、建築には窓も必要ですし、機能がからんでくるからです。ル-ブルのガラスのピラミッドのように、単純な1室空間でというのなら話は別ですが、諸機能を満載した人間の容れものである建築を、諸条件を調整して純粋なピラミッド型にまとめるにはかなりの力技がいるのです。それに、人間は自己顕示欲の強い生き物であり、わたしもそうですが、なにか自分なりの表現を付け加えたい衝動にかられます。こうして、自分ではこれでいいと信じつつも、純粋にシンプルで崇高な造形からだんたん離れていきます。妥協も出てきます。純粋な芸術作品と違い、建築物はその文明と社会の縮図であるからです。だから、いっそのこと、ゴテゴテとした装飾的な造形や、評価の定まった古典をつい引用しがちな傾向があるのだといえるのかもしれません。以上が、名をシンプルにする理由であり、わたしのシンプルへのあこがれです。

では、つぎにふたつめの理由です。カナモジ(カナ文字)会というのがあります(たしか)。これは、日本語の表記をすべてカタカナあるいはひらがなでおこなおうというけっこう前衛的な思想をもつ団体です。ご承知のように、日本語は漢字とカナの組み合わせ、ときにはアルファベットもまじえての表記法を可能とします。これは、日本人が長い歴史を経てつくりだしたたいへん有効な手法であり、いわゆる日本文化の根本をなすもの言っていいでしょう。漢字かな混じりの文章は、見た目に美しく、文章の意味が短時間に把握しやすい、脳の活性化にも役立つなど、たくさんの効用をもっています。わたしもこの人類の歴史上最高といってもいいとおもえるこの表記法を高く評価しています。

ところで、明治維新後、海外の先進かつ脅威的な文明に触れた日本人のなかで、日本語の欠陥に気づき、その表現を改めた方がいいのではというおもいを抱いた人たちが複数いました。その人たちのなかには、いっそのこと日本語を廃して外国の言葉を日本語にしたらどうだ、という過激な意見もありました。終戦直後に文学者・志賀直哉氏が日本語のフランス語化を提言した話は有名です。この場合は、敗戦のショックを引き受けてのことでしょうが、これまで、フランス語に限らず英語やドイツ語を採用すべしと、いろんな意見があったようです。そのなかで、日本語の表記をロ-マ字にしたらどうだという人もいました。宮沢賢二がロ-マ字で日記をつけていいたことはよく知られています。また、氏はエスペランチストとしても知られていますが、エスペラント語というのは、ポ-ランドのザメンホフという人が提唱した既存のどの言語にも属さない人造の国際語であり、言語帝国主義といえる大国による小国への、大国の言葉の使用を強要されたことへの痛烈な批判・悲しみが根底にあります。おそらく、かつての日本も朝鮮半島やアジアの各地でそのようなことを試みたのでしょう。

「はじめに言葉ありき」と言われるように、言葉はとても重要なものです。文化そのものと言っていいかもしれません。わたしたちは言葉で意思を表明し、言葉でものごとを考えます。そして、その思想は言葉で表現されます。学術研究の場において、あるいは国際的な交渉の場において、自国語でそれらが実行できるということは、はかりしれないほど有利なことです。わたしたち日本人は、海外で交渉やプレゼンをする場合に、英語を使うことがあたりまえだと感じているのかもしれませんが、これは、たまたま英語を母国語とする国々が現在の世界において有力な立場を占めていることの反映にすきず、英語が世界共通にふさわしい構造をもつ優秀な言語であることを示しているわけではありません。アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・中国・ロシア、世界の有力な国々は、それぞれ自国語を世界標準にしようという懸命な努力を、莫大な予算を使って営んでいます。なぜかというと、そのことが自国の利益であるからです。わたしたちは、例えば世界に通用するものを発明したとき、それを英語に翻訳して世界に発表する必要があります。重要な研究時間をさいてまで外国語の習得が義務付けられているのです。ところが、アメリカ・イギリスなど英語圏の人々は、すくなくとも英語の習得という労力を必要としません。タフネスさを要求される外交交渉の場において、標準言語に自国語が採用されるということがどれだけ有利にはたらくでしょうか。言葉こそが文化であり思考であり、その言葉で交渉できることの有利さはとても大きいものがあります。

そんななか、日本政府は英語教育を小学校まで拡大しようとしていますが、これは諸外国の政策とは意を異にするものです。もちろん、外国語教育は必要です。異なる文化の存在を知ることにより、社会や文化の多様性を知り、自国の文化についてより深い知見を探るためにです。単に英会話の習得が目標なら、そういう環境に身を置けば済みます。終戦後の日本人がまたたくまに、それまで敵性語であった英語を駆使した例があります。むしろ、日本政府は英語一辺倒の政策をやめ、多様な言語の存在と習得を初等教育で打ち出すことが国の将来のためです。そして、国益を考えるのなら、日本語を世界標準語にするくらいの気概を持たなければなりません。アメリカがドルと英語を世界の機軸とするために、どれだけの配慮と費用を費やしていることでしょうか。

さて、先に日本の国語を外国語にという運動があったことを記しましたが、この理由には日本語が欧米の言語に比べて劣っているのでは、という意識がはたらいていたのかもしれません。明治維新期、圧倒的な彼我の技術力の差を目の当たりにした当時の日本人には無理からぬことだったのでしょう。しかし、けして日本語は言語的には劣るわけでもなく、不合理な構造でもありません。むしろ、不合理さは英語の方が目立ちます。たとえば、日本語の発音は文字とほぼ完全に一致します。イロハ50音は、誰でも完璧に発音が再現できます。ところが、英語はその単語ごとに発音が変化します。アルファベットで書かれた「a」は、「ア」「アイ」「エイ」など複数の発音があり、それはひとつひとつの単語について覚えこむしかありません。たとえば、役所の窓口で「お名前は」と聞かれたときに、日本語ならカナ書きでなら、ほぼ100%それを記述できます。(「は」と「わ」、「づ」と「ず」などの例外はある)これが英語では、「スペルは」と100%聞き返されます。文字の発音が一定ではないからです。また、言葉には動詞の変形がありますが、日本語は過去形・未来形・現在形がほぼ一定の法則で成り立ちますが、英語の場合はそれも法則が複数あり、例外もいくつか存在します。このように、日本語こそが世界でもっとも合理的かつ機能的な言語であるという主張する人がいます。カタカナを併用することで、あらたな言葉にも容易に対応できます。日本語を、欧米の言語に比べて劣っているような印象を持たれている人がいたら、認識をあらためてください。

発展途上国と言われる地域で、高度な教育の現場では実用に値しない言語を母国語にもつ国もあるということです。英語あるいはヨ-ロッパ系の言語・中国語は言葉の意味を慎重に吟味し、ことばの意味を厳正に区分した単語を多く持つという特徴があります。残念ながら、この要素がないと大学などの高等教育の場では実用に向かないわけです。では、日本語はどうなのでしょうか、もちろん、じゅうぶんにまかなえています。英語に比べると日常使われるひとつひとつの単語の持つ意味がいくぶん範囲が広いとは言えるでしょうし、そのことが、なにごともあいまいに済ましてしま国民性にもあらわれているのでしょうが、それを補って精密かつ厳密にものごとを区分する単語も持ち合わせています。日本の科学や製造の現場での高い知的水準がそのことを証明しています。

このように、わたしは日本語の機能性・洗練性を高く評価しているひとりですが、欠点ではないにしろ、実用や言語習得のうえで障壁となっている要素があることも承知しています。そのひとつが漢字の存在です。英語ですとアルファベット26文字でこと足りますが、日本語は数千の漢字を併用します。このことが、その表現の現場で、かなりの負担を強いられてきたことも事実です。たとえば、昔の印刷は活版でした。おびただしい数の活字のなかから、ひとつひとつの漢字を探し当て、職人さんが文字を拾って組みあげていました。また、かつては和文タイプというものがあり、英語のタイプライタ-がたいへんシンプル・簡便にできているのに比較して、莫大な労力と機構を必要としていたわけです。言葉の表現の機械的・経済的な容易性の点で、日本語は大きなハンデを負っているわけです。このことは外国人の日本語習得と、日本語を世界に広めることの困難に直結しています。先述したとおり、日本語の会話そのものは、世界の言語の中では簡便な部類に属します。ところが、これを一歩進めて読み書きの分野にまで範囲を広げたときに、どうしても漢字の使用がネックになるのが実情なのです。

こんな状況で、いろんな人がいろんな解決策を考えます。そのひとつがカナ書きの推進です。ご存知のとおり、カナの数は50に足りません。カナだけのタイプライタ-をつくれば、英語のものと遜色のないものになります。じっさいにこれは作られました。けっこう多くの人たちがこれを使用したと聞いています。この日本語のカナ書き推進の運動を担ったのが「カナ文字会」です。「ロ-マ字会」もその意味でおなじ意図を持っています。梅棹忠夫さんという知の巨人が京都にいますが、この人はカナ文字推進の大御所であり、若いころは日記から研究論文までカナ書きあるいはロ-マ字でとおしたという猛者です。さすがに、学術論文は指導教官や先輩から苦言を呈されることがあったとのことですが、かな書きには自分の思考・文章の洗練におおいに貢献があったと記していますので、いちどためしてみる価値があるようにもおもいます。じつは、わたしもこの記述に触発され、しばらくのあいだ、日記をロ-マ字で書いてみた時期がありました。わたしの場合は数ヶ月しか続きませんでしたが、その効果に対する疑問というよりも、単に日記をつける習慣が長続きしなかっただけのことです。

そんなこんなで、日本語のもつ負担の大きさからくる、先人たちの苦労や活動、思想が、あるとき簡単にひっくりかえされました。ワ-プロとパソコンの登場と印刷技術の進化です。この発明により、日本語の表現が劇的に容易になりました。テクノロジ-の進化が一夜にして日本語がもっていた負担の多くを解消してくれたわけです。こうして、カナ文字会などの簡易な日本語を求める活動は下火になりました。あいかわらず、わたしたちは漢字を駆使して見た目にも美しく、意味のわかりやすい文章に毎日触れています。このことは喜んでいいことなのでしょうが、ただし、まだ続きがあります。わたしたちは漢字という画数が多く、ときには線の長さや点のあるなしに気を使わなければならない文字の負担からけして開放されたわけではないのです。たとえば、英語を標準とするワ-プロは、日本語のものより、はるかに多彩な機能を備えているようです。スペルチェック機能などがその代表かもしれません(現在では日本語でもあるのでしょうが、英語のものより数年の時間を必要としました)。漢字を使う以上、パソコンはそれだけの負担を負うわけです。つねにハンデがつきまとうことにはかわりがありません。英語ではできるけれども、漢字文では難しい・コストがかかるという状況が永遠に続くわけです。外国人の日本語習得の困難さはあいかわらず続きます。

みなさんは電話の向こうの質問に答えて、「都に城・姫路城の城、東西南北の南、鳥の鷹・三鷹市の鷹・尾っぽの尾」なんて返答をしたことはありませんか。わたしは自分の住所である都城市南鷹尾町の説明を電話でこうやって2、3ヶ月に1回はしているようにおもいます。いくら技術が進化しても、この状況を解決するには、まだある程度の時間が必要であるでしょう。その点、わたしの事務所名と仕事上の個人名の説明はとっても楽チンです。カタカナでと言えばそれで済みます。

さて、やっと質問に対する2つ目の回答に到達しました。かつて、日本語が構造的にかかえる負担や拡張性をなんとかしたいという人たちが「カナ文字会」の運動をつくりました。わたしもその精神と意義に賛同します。そして、漢字の使用がもたらす不毛な労力は、なるだけ排除したいとおもいます。これが、「なぜカタカナなの」という疑問に対するふたつめの理由です。

とっても長くなりました。質問者の「イナバウダ-」さん。せめて、あなただけは、最後まで読んでくれてますよね。

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コメント

ニッポン人は、敵の国の文字を、頭の下げて、使う訳ではありません。国語(ニッポン語)で使っている漢字を1500字まで減れせよ!

投稿: 榊原英聡 | 2012年12月 1日 (土) 12時54分

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